考えたり論じたりする時には
安易に「について」とすぐ口に出してしまいもすれば
随想ふうの文章のタイトルにもしたり
論文のタイトルにしてしまいもする
しかし
たとえばドゥルーズの『シネマ2*時間イメージ』の
「映画の理論は、映画『について』ではなく、
映画が喚起する諸概念についての理論である」
などという文を読み直してしまったりして
この「について」は
英語なら「on」であったり
フランス語なら「sur」であったりするのだったと気づき直せば
「について」と安易に言ってしまうことは
こちらの思考が
こちらが向きあう対象の上にあると無意識に設定してしまっている
露骨に表わしてしまっていたのだと
気づき直させられる
こちらの思考が向きあっている対象が
どうして思考の下にあるのだと無反省に決めつけられなどするのか
なんという粗野な差別意識か
対象の一括視の可能性へのなんという盲信か
こう思わされて恐ろしくなり
「について」型のものの扱いから決定的な退歩を始め出す
もっとも
日本語の「について」は
「に就いて」であり
格助詞「に」に動詞の「就く」の連用形が続き
そこにさらに接続助詞「て」が付いて「につきて」
それがさらに音便化したものだったことを思うと
「on」や「sur」
ここに日本語で考えることの可能性の一端も垣間見えてくる
辞書的には「に就いて」は
ある事柄を扱う際に考察範囲を限定する意味を出すものだろうが
「就く」に含まれてくる
「選んでそれに従っていく」
これは「on」や「sur」
かなり匂わせているように思われる
もちろん
「on」や「sur」を
「の上」の意味でのみ捉えるのにも問題があって
物に密着して接している意味を忘れないようにしなければならず
だとすれば
物に密着した時
接触者の意識のそれまでの主体性や恒常性など
ただちに揺らいだり失わされたりするものであったことも
思い出さねばならず
ひょっとしたら
「について」も
「on」も
「sur」も
思考の安定が失われて揺らいでいくことになる境域への
旅の始まりを
告げる表象であったかもしれない
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