外で私を待っていたのは、別の夢だった。
J.L. ボルヘス『1983年8月25日』
メロディや
テンポや
その他の音の効果を結い留め
ひとつの実体であるかのようにして
数分の
音楽作品を出現させる
ポップス
その歌詞というものを
あらためて
文字で眺めなおすと
ときどき
唖然とするほどの
意味不明に陥ってしまうことが
ある
いちばんこれを感じるのは
サザンオールスターズの『TUNAMI』や
井上陽水の『少年時代』で
このふたつは
ただ耳で聴いているぶんには
わかる
わかる
よくわかる
という感じがしっかりあるため
歌詞を見直した時のわからなさ感は
けっこう半端ない
両方の歌とも
夢の話に言及しているところがあって
これがまた
わからなさを
ぼんやり
ほんわか
増幅するのだが
ふたつを
続けて聴き直したりすると
『少年時代』と『TUNAMI』が連結されて
こころの中に聞こえ続けたりする
『TUNAMI』のほうでは
夢が終わり
目覚めるとき
深い闇に
夜明けが来る
ほんとは
見た目以上
打たれ強いぼくが
いる
と歌われ
『少年時代』のほうでは
夢が覚め 夜のなか
ながい冬が 窓を閉じて
呼びかけたままで
夢はつまり 想い出のあとさき
とか
目が覚めて 夢のあと
ながい影が 夜にのびて
星屑の空へ
夢はつまり 想い出のあとさき
と歌われるのだが
『TUNAMI』のほうでは
いちおう
「夢が終わ」って
「目覚める」と歌われているのに
『少年時代』のほうでは
「夢が覚め」
「目が覚めて」も
あいかわらず「夜のなか」だし
「ながい冬」は
「窓を閉じて」
「呼びかけたまま」だし
「ながい」影は
「夜にのびて」
「星屑の空へ」だそうで
無明はそう簡単には終わらない
という感触が
どの節がどの節に繋がっていくのか
いまひとつ不分明なまま
提示されていく
空海が 『秘蔵宝鑰』に記した
生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
という慨嘆に
どうやら
井上陽水の『少年時代』は通じていくようで
このポップスが
はて
じつは
陽水和尚の法話であったか!
と気づくと
ポップスのかたちで
現代社会では
なんと多くの方便による法話が行われているのか!
と気づかされもし
ポップスや歌謡曲や演歌や俗謡のたぐいが
どれも『閑吟集』などのたぐいに見直されてきて
歌い手たちの吐く
一見浅薄な
軽佻浮薄な文言のひとつひとつが
空也上人の口から次々と出る
仏の小さな像のように
宙に舞っていく
気がする
夏が過ぎ
風あざみ
だれのあこがれに
さまよう
さまよっている
と
感じている
のは
だれか?
その「だれ」は
べつの「だれ」のあこがれに
たぶらかされ
続けている
のか?
サザンオールスターズ『TSUNAMI』 [2018 Remaster]
(86) TSUNAMI [2018 Remaster] - YouTube
井上陽水『少年時代』
(86) 少年時代 (Shonen jidai - Boyhood days), 井上陽水(Yoshi Inoue) - YouTube
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