2024年11月4日月曜日

清水鱗造詩集『まんずナマズ捕ってな』*

 

 

 

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清水鱗造の詩集『まんずナマズ捕ってな』は、『白蟻電車』の頃からあいもかわらず、読者になるやもしれぬ人間たちのことなど一切忖度しない。

だから冒頭に、『肉柱園』や『昆虫ベッド』という少し長めの詩を持ってきてもかまわないと言えば言えるのだが、詩集の中ではこれらは、じつは少し作風の異なるものなので、思い切って削除するか、あるいは真ん中以降にぽつぽつ混ぜるほうがよかったように感じてしまう。

その後に来る『亀甲』も、詩集『まんずナマズ捕ってな』的波動を十分に載せてはいないのではないか? 本震の前の予震めいて来てはいるが、まだ試走の段階で、これも三篇目には置かないほうがよかったように思ってしまう。

ところが、四つめの『角砂糖花』の冒頭の

 

朝方に気分の四隅が

 

に逢着すると、読者はたじろぐ。

文句なしに「気分の四隅」は名句であり、決定打だからだ。

ヤベえな、と思う。

なにがヤベえかというと、令和6年前後の日本の空気の内臓を掴んでしまっている感ありありな詩集の予感が、一気に襲ってくるからだ。

たぶん、『肉柱園』や『昆虫ベッド』や『亀甲』の勘どころを見逃して、進んできちゃったな。

ヤベえな。

と、ちょっとふり返ると、

『肉柱園』のはじめの

 

きのうは昆虫もやってきた

小さくても大きくても

丸呑みにされて

胃から腸へ

日々

消化されて砂にこぼれる

溶けた形の生物

半溶けで砂上に

いくつかの塊と液体が絡んで

話を作っている

 

が燦爛としている。

ああ、そうか。

ここの完成度に気づかなかったのは、この後、長く詩が続いていってしまうからだ。

私なら、ここで切って一篇に仕上げてしまう。

そのほうが、この十行は生きる。

 

 

 

 

     2

 

  ともあれ、『肉柱園』のはじめの燦爛を発見し直すと、その後に出てくる

 

『犬の基礎』という本も

垂れていた

おもにゾウ色の

肉塊が立ち並び

 

の、とりわけ「おもに」の見逃しがたい旨さが意識にこびり付いてくる。

さあ、来たぞ。

癖になるやつで、こういうところに引っかかり出すと、

 

肉柱園に入ると

広告紙が落ちていて

見下ろすと

「微分するとあなたはいい人

またあなたは微分すると悪い人」

というコピーが見えた

 

の旨みがグイーッと来るようになる。

 

 

 

 

     3

 

 とはいえ、詩集『まんずナマズ捕ってな』は、文句なしに危険な『草の穂あつめ』から開始してほしかった。

 

製粉道路を行くと

福耳スタイルの実が

左右に成っていた

夜のゲジゲジ這いといえば

くるみ内の話でしょう

何よりも地植えです

花の穂と

手のひらの空押しを

配置すれば

重層的な付け文

 

十行という短さもいい。令和中期には国語の教科書に載せれば、令和後期の青少年の愛唱詩となりうるだろう。ならなかったら、日本の美意識は終わる。

『草の穂あつめ』の次には、『新人クラゲ』か。

 

またしてもクラゲが

採用される

みんな地元の角煮を

祝いに持っている

添えてある昆布の根茎が

髑髏状に

ごつごつしていた

 

クラゲからは

たくさんの幼生が散っている

 

ここには『草の穂あつめ』よりもゆとりがあって、読者も少し心を許してクラゲられる。7行目の後で一行空けてあるのもいいが、「地元の角煮」にはもっとふくよかにやられてしまう。清水鱗造としては、こんなホクホクした詩果は珍しく、貴重な単語配置である。

もちろん、『飛沫』を置くのもいい。

 

魚の頭を煮ろ

骨を湯がいて

燐を濃縮

ちん魚は気にしないで

嚢の裏にある

泣きどころを確認し

骨を煮ろ

一緒ガールは

赤い斑点に満ちていた

 

「一緒ガール」が、過ぎ去った一時期の日本社会を濃縮しており、そういえば、安倍晋三時代はまさに「一緒ガール」時代ではなかったか?と気づかされる。「赤い斑点に満ちていた」というところが、(もし、梅毒第二期の特徴である、手のひらに広がる赤い斑点などでなければ)、冷静に過去していて、読者の心は「泣きどころ」とともに「確認」される。

「一緒ガール」はもちろん、14篇ほど前に載せられている詩『ボロん島』に出てきていたものの再登場である。

 

一緒ガールは

黒葛まみれ

表面に点々がいっぱいな

ハシゴでもいい

脚立でも

 

驚異の5行詩だが、ここに現われていた「表面に点々がいっぱいな」は、明らかに『飛沫』の「赤い斑点に満ちていた」に重なるだろう。

ああ、詩集『まんずナマズ捕ってな』は、構造してるぞ。

清水構造。

 

 

 

 

    4

 

詩集の最後の詩『丁寧に』は、当然ながら、構造の取りまとめというか、肛門となっているはずであるぞ。

そう思って、

 

まんずナマズを捕ってな

はしごでもいい

脚立を使ってもいい

壇上に

魚を供えて

右耳に藁しべを入れ

左耳から出す

その繰り返し

 

を虚心坦懐に読んでから、それ以前に並べられた他の詩をふり返ってみると、なんと、最初に載せられていた『肉柱園』には、

 

ナマズがウナギを

丸呑みしようとしている真鍮の像

大小一対になった銅像だ

でも呑む動物も呑まれるものも

全部いっしょに腐っていく

 

とすでに書かれていて、詩集『まんずナマズ捕ってな』の周到なナマズ配置に気づかされる。

そればかりか、最後の詩『丁寧に』が祈りのように招聘する「はしごでもいい/脚立を使ってもいい」は、「一緒ガール」の出現する詩『ボロん島』に、すでに「ハシゴでもいい/脚立でも」と現われていたではないか。

「ハシゴ」がどうして「はしご」になっていくかは多少の謎でもあるのだが、それはともかく、ここまで気づいてくれば、ニョロニョロ逃げ続けるのが最大の特徴である清水鱗造詩を、「まんずナマズを捕ってな」という指南よろしく、掴めそうになったと言えるかもしれない。

 以前、詩集『ボブ・ディランの干物』で「私はじつはカエルです」と白状した清水鱗造は、じつはナマズである。

 ウナギではない。

 

 

 

*清水鱗造詩集『まんずナマズ捕ってな』(灰皿町発行、20241025)







 

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