2024年11月11日月曜日

ふにゃふにゃ


 

 

しかし僕の考えでは、言語というようなものはないのです。

つまり表現されなければそれはない。

だから表現としての言語ということが問題になってくるわけです。

吉本隆明『共同幻想論』序

 

 

 

この国

を支配している

大きな国で

ボスというか

総統というか

統領というか

総長というか

そういうのを選ぶ選挙があったそうだが

それに関係を持ちたくても持ちようがないので

どこかの暗黒星雲の出来事のように

あれこれの情報を寄せ集めた情報望遠鏡で覗いてみても

ひとびとの思いも振る舞いも

騒ぎぶりも

はしゃぎぶりも

やっぱり理解できないし

一票とやらをヒトガタにする宗教っぷりには

やはり

怖じ気さえ沁み上がってくる

 

だいたい

この国

などとうっかり言ってしまいはするものの

この国の「国」性自体が

ぼくにはよくわからないままなので

言語表現も

思考用の概念も

ふにゃふにゃ

 

そりゃあ

いろいろな安売り概念を持ってきて

あれこれと説明して

わかったふりする演技もできるけれど

借り物概念によるわかったふりごっこだと

自分自身はわかり過ぎているから

下手すると内部では

タマシイとかレーコンまで

ふにゃふにゃ

 

この国の

国民として

将来どんなふうに云々………

というオハナシ会は

憂国の士たちによってあちこちでなされているけれど

だれもかれも

ふにゃふにゃ言葉をめっけて

ふにゃふにゃ話し出したりしないで

黒田節の剣舞のような

白虎隊の舞いのような

キリッとした立ち居振る舞いとしゃべりっぷりで

こりゃあ

ぼくとは違った星から来た連中だな

すぐわかる

 

概念なしで

なにも借りずに

できれば

言葉なんかもなしに

この国のこと

「国」というもののこと

語ってみてください





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