2012年3月30日金曜日

足さえも もう 動きづらくなくなり…




 
死のひと月前
病は急に軽くなり
家に帰って
回復に努めることになった

肋骨の浮き出た胴で
布団も物干し竿に干し
洗濯後の乾いたタオルも下着も
細い腕で畳んだ

私らが強く勧めるので
ビタミンの豊富な食事を摂ろうとし
しかし
腹水による胃酸の逆流で
食道や噴門は痛めつけられ
食べたいという気は
ゆっくりと失せていった
介護弁当を取ってみたものの
嫌いな揚げ物や
固まった餃子が入っていたりして
すぐに欲しがらなくなった
友人たちから届いた
栄養価の高いレトルト食品も
無農薬野菜も玄米も
食べるべきだとは思いながら
ようよう小鳥が啄ばむ程度

水や白湯や
オレンジや葡萄や人参
黒パンと
ほんの少しの白魚
ときどきササミ
そんな程度で
ずっと
やっていきたかったろう
しかし
もっと体力をつけねばならず
もっと血液の質を高めねばならず
筋肉もつけねばならず
しぶとい病巣と向きあわねばならなかった
私は鬼コーチのように
昨日はなにを食べたのか
運動はどのくらいしたか
どうしてここは整理されていないのか
なぜもっと早く寝ないのか
漢方薬の量をもっと摂れないのか
などなど
きつく言い続け
死のひと月前だったというのに
すべて擲って
あきらめて
安らかにさせてやるゆとりを
まったく与えなかった

近くの停車場から
夜々
私は終バスか
そのひとつふたつ前で帰り
家には終電か
そのひとつふたつ前で帰る
そんな週が続き
やがて
それまで無限に感じられたくり返しが
二度とくり返されなくなる
十月末へとなだれ込んでいった

私が帰る時には
動きづらい足ながらも
玄関から出
門から道路に出て
少し離れた角を私が曲がるまで
夜のなか
手を振っていた
餌をもらいに猫たちが
一匹二匹
その足もとに集まってくる気配もあった
角を曲がるところで
私は振り返って手を振り
街灯のあかりで腕時計を見
終バスの時間に間に合うか確かめる
もう一度ふりかえるべきか
と思いながら
しかし終バスへと急ぎ
一日一日
差し引かれていった私たちの
今生の時空の共有は
しごく正確に
ゼロへと向かっていった

動きづらい足ながらも
玄関から出
門から道路に出て
少し離れた角を私が曲がるまで
夜のなか
手を振っていた
もう一度ふりかえるべきか
もう一度ふりかえるべきか
わからない
今となっては
どこへ
どこを
ふりかえるべきか

たとえば
誰か
ほかの人と
おしゃべりしたりしながら
食べたり飲んだりしながら
見ていたりしている
あの日々

いまは
見続けている

手を振っていた
夜のなか
私はもう腕時計を見ず
時間に間に合うか確かめず
終バスへと急がずに
何度もふりかえり
一匹二匹
餌をもらいに来る猫たちとともに
動きづらいあの足のほうへ
戻って行く
そうして
道路から門に入り
玄関に入り
家に入り

足さえも
もう
動きづらくなくなり…

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