2015年7月30日木曜日

これは

  

めったに行かない都北の繁華街で飲んで
家までそう遠くないものだから
歩いて帰ってきた
印刷工場の多いあたりを突っ切って歩いてくると
少し到着がはやいので
ふだんは通らない道から道
辿りながら
どこも街灯が点いた夜の中を進む

ある工場のわきを通りながら
ハッとなった
学生時代に働きに来たところではないか
文芸同人誌を作るために
急いで金を貯める必要があった時
このあたりの印刷工場に働きに来た
たまにこのあたりを歩きながら
どの工場だったか
この工場だったのではないか
そう思いながら思い出してみることはあったが
いつもどこか違うように感じていた
ところがこの夜
その工場の全景を見ながら
ありありと思い出した
大きな入口があっちにあって
こっちは製品や資材の搬入搬出用の大きなプラットホームがあって
そうそう、この入口
ここに守衛室があって
あの奥から労働者は入ってタイムカードを押して…
そんなふうに思い出がきっちり合致して浮かんでくる

あれ以来
紙の媒体で出し続けた雑誌には
グループのものも自分ひとりのものもあわせて
総計500万円以上かけたのを計算したことがある
他のことに金も労力も注げばよほど良かったとは
誰よりも自分が思うが
そうしていたならば今よりももっと愚かだっただろう
賢くもならず何者かにもならず成熟もしなかったが
ごくわずか愚かでなくなる方向に動くためには
そのぐらいの金を蕩尽して労力を燃焼しなければならなかった
書いたものにもこだわらず
仲間になったり離れたり友人になった幻想を抱いたり
そんなものが幻想に過ぎなかったと思い知ったり
こんなサバサバとした人間になり切ってしまったのは
あれらの金と塵労のおかげか

本の表紙を機械が糊づけしたものが出てくると
糊をぴっちり貼り付けるために
表紙の上から掌をあてて適度な力でスーッとならす
そんな仕事を数時間続けることもあったが
その後は手首が固まって動かなくなってしまう
本に帯をつけ続ける仕事もあったが
ちょっとでも歪んで付けてしまったりすると
主任がベルトコンベアーを飛び越えて来て
お客さんに最良のかたちで届くように整えるのが仕事なんだ!
帯ひとつでもいい加減な気持ちで付けるんじゃない!
と叱責してまわるのだった
厳しくうるさい職場だったが納得のいく厳しさで
こんな人たちによって本が作られていくのかと現場で知ったのは
どんな学校や図書館で本を弄ってみるよりも教育的だった
できあがった本の束を決まった数ずつスノコに積み
それがクレーンで運ばれてトラックに積まれて行くまでが仕事だっ
食事の時間もあったがこれが驚愕するようなもので
ラーメンが届いたから、と言われて向かうと
別室の床一面にラーメンが100椀ほど並んでいる
五分で食べて持ち場に戻れと命じられて必死で啜り
なんだか軍隊みたいでこんなのは初体験だとけっこう新鮮で
それにしてもこういうのは労働法に引っかからないのだろうかと
考え考えしながら持ち場に戻ったものだった

毎日出会った何本も歯の抜けた中年のオバサンはまだ元気だろうか
今でいうシングルマザーだが女手一人でふたりの子持ちなもんで…
と当時の人が言うような表現をするやさしい人だった
撫で肩で腕の肉が白く弛んでいて髪もちょっと薄めで
どこか鬼太郎の世界に出てきそうな薄倖そうな人だった
なぜだか毎日のようにタイムレコーダーのところや
出勤途中の道すがらに出会うのでけっこう話をしたが
あなたみたいな学生さんなんかと違って
私にはこんな仕事しかできないもんだからあっちこっちと
よくこういう仕事に来るんですよと話していた
もうちょっと話す機会があったらとも思ったものだが
ありえなかっただろう、そんなこと
雑談や無駄話なんかする時間はあのような人にはない
時間があったら他の仕事を差し込まないとやっていけないのだ

あのオバサンも含めてこの工場全体が
何十年も経ってこうやって目の前に蘇ったのを見ながら
これはいったいなんの意味なのか
なんの比喩なのか
などと考えざるをえなかった
はじめて同人雑誌を作るための金を貯めるために来た工場の前に
もう一度戻って来てひとりで見直してみているのは
何十年も前に始まったひとつのサイクルが
ここでこの瞬間に輪を閉じるとでもいうことなのだろうか
もうすべて終わりにしてしまっていいのか
人がよく「人生」などと呼んで御大層に何事かに祀り上げたがる
たいしたこともない長いような短い時間の塊を
ここで丸ごと捨ててしまえ
すっかり軽くなってしまえ
そんな含みのある偶然の回帰なのか
これは
これは
これは



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