2017年8月30日水曜日

『シルヴィ、から』 2

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩 
 [1982年作]

 (第二声)


 そのとおりだ、聞け、わたしが語る。

 ながい旅の途中、嵐の田舎道でわたしはシルヴィを見つけたのだった。

 激しい風が横なぐりに吹きつけ、黒くもあり白く輝くようでもある巨大な雲の無数のかたまりが、遠い低空を風に引きずられていた。

 わたしの辿るぬかった道は、やや広い間隔でその両わきに立ちならぶポプラとともに果てることなく続いていた。雨はあまりにも激しく、並木の影響もあってか頻繁に向きを変えたので、傘をさすのはとうに諦めていた。
全身びしょ濡れになって歩いていた。濃紺の毛の外套は、厚い濡れ雑巾のようにじっとりと水を吸い、革靴は薄い水っぽい肉片のようにじゅくじゅくと音を立てていた。

 シルヴィは片方の掌を、ある一本のポプラの根本のやゝ醜怪な瘤の上に力なく開いて倒れていた。
中央にしろ、端にしろ、少なからず泥に足をとられるのにかわりはなかったが、それでも道の中央を選んで歩いていたわたしからは、はじめ、その掌だけが見えた。

歩み寄ると、掌は、わたしの近づくにつれて、道のはずれへ、泥まみれの大きな溝の雑草の繁っているところへと裸の腕を伸ばした。腕はやがて泥濘と薄汚れた緑の中でひどく蒼ざめている裸の胸を生み、頭を、体を、足を生んだ。

嵐の道端に、泥にまみれて裸で横たわっている女だ。

紫の唇に、眦に、鎖骨とそこから滑り落ちる窪みに、かなしみのように千々にわかれて貼りついた、幾分、色の不揃いな金の髪を見つめながら、記憶の深い沼の底から、木目の際立った大きな古い木片にさえ喩えうる、過去に繋がった、いや、過去から投じられたひとつの懐かしい実感が、ゆっくりと浮上してくるのを感じていた。

シルヴィだ、とわたしは思った。
ところどころ傷んだ大きな赤革の旅行鞄を泥の中に横に立てて、その上にでも座り、これから半時間でも、いや、半日でも、この横たわっている肉体のかたわらで一服していたいような奇妙な欲望を覚えた。

実際には、彼女の顔の間近に屈み込み、かすかな息を認め、閉じられた目のあたりに、たゞ、とにかくも生きているという事実を見てとりながら、これこそがシルヴィだと、ふと思い出した詩句のように心の中でくり返していた。

わたしは自問した。問わざるを得なかった。わたしは何処をめぐったか。なにを求めて歩いてきたか。この数年間を、この泥まみれの旅の中を。そして、シルヴィとはなんだったかを。

ふと、さっき道の途中ですれ違ったひとりの老婆のことを思い出して、この場の雰囲気にいかにもそぐわぬさまで、弾かれたように往来の中央に飛び出すと、すでに歩んできたはずのこの道の後方、その彼方を眺めてみた。
道はどこまでも真っすぐで、はるか彼方、地の果てに突き当たるかと思われるあたりで雨の中に消えていた。
老婆の姿はどこにも見えなかった。
わたしは安堵した。
さっき老婆とすれ違った際、心に受けた予感のようなものと怖れを思い出したからだ。
老婆が後方に去った刹那、わたしはそのほうを振り向こうとしたが、突然、体の自由を奪うような静かな恐怖が、大地から脚を伝って全身に沁みわたるのを感じたのだった。
その怖れの中を、望まれもしないのにどこからとも知れずやってきた思いが、じっとりと広がりつつあった。
老婆は確かに歩き続けていくだろう。
わたしがせっかく辿って来た道をわざわざ戻って行くだろう。
しかし、わたしがふり返った時には、その姿は認められないのではないか…
そんな思いが、振り向こうとして振り向けないでいるわたしの心を領していたのだった。
すでに胸のうちに鮮やかに映像化されていた、歩んでいく老婆の光景の上に、この思いは半透明の薄い膜のように重なって、複合された新しい印象を生み出した。恐怖は、茶色のガラス瓶の中の白濁した、病弱な幼年時代の馴染みの、シロップで甘みを加えられた薬のように、やゝ親しみやすいものとなった。
予感に違わず、本当にどこにも老婆の姿が見えないのを知ったわたしは、いまやその恐怖を、シロップで甘くされた飲み薬のようにゆっくりと呑み下したわけだった。
それでも、老婆の印象は切れ切れになおも浮かび上がった。
傘を持ってさえいなかった黒頭巾の小さなあの老婆にも娘の時代があって、わたしがその頃に出会えば心惹かれたかもしれないと考えると、なにか戯れに過ぎたような気がして、わたしはそっとあたりを見まわした。
そして、シルヴィのところへと静かに足を返した。

さっきの欲望が思い出されて、わたしは旅行鞄を泥の中に横に立ててみた。
だが、そこに腰をかけることはしなかった。
わたしはやはりシルヴィの頭のかたわらにしゃがみ込んで、ほとんど思い出そのものといってもよいような、この懐かしい顔を見つめるのだった。

豪雨の中、移りゆく暴風雨の音の中で、静寂が、子供部屋に吊られた蚊帳のようにわたしを包んでいた。
それでいて、その静寂は、どこまでも広がり膨れ続けて、留まりを知らぬようで、お仕舞いには鈴の音のようにこの世の果てへまで滲みわたるかと思われた。

脚がしだいに疲労に凝り固まってくるのを感じながら、わたしは、わたしがわたしであった時代は終わってしまったのだ、と思っていた。
完全に終わってしまったのだという自分自身の断定がわたしを感動さえさせるようだった。

もし本当に終わってしまったのならば、わたしは思い出すことができるだろう。
意識的に記憶を掘り起こして、細く神経のように伸びた真実を引き出してかまわないだろう。
そうすれば、ーーとわたしは空を見上げて思うのだ、その空では、無数の雲塊のうちの殊に壮大な一塊が、今まさにわたしの頭上を運命のように流れていくところだった。
そうすれば、あるいはわたしも自分の位置を知ることができるかもしれない。
そうして、シルヴィとはなんであるのかを、知ることができるかもしれない。

本当に、いま目の前に横たわっているこの娘が、数十年来わたしを放浪させた謎であり、魅惑だったのだ。

はじめて出会ったあの時以来、これほどシルヴィに肉迫したことはなかった。

だが、こうして目の前に、わたしの生のゆくえを変えた娘を投げ出されてみると、謎は全く解かれ得ないという予感を抱くのだった。
この嵐の田舎道のかたわらにあって、もし悲嘆や絶叫が悲愴気な喜劇とならないならば、わたしは全身を以てこの鬱屈を語るだろう。
あゝ、なんという娘、この娘はこんなにもわたしから遠ざかっているまゝなのか、とでも。



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