2017年8月7日月曜日

「アッ!」と一言発しただけの単純な声でさえも


  
子どもの頃も
若者だった頃も
歳をとった人たちがよく
「今でもありありと覚えている」
などと
昔話をするのを聞くと
本当かなァ?
そう思い込んでいるだけじゃないのかなァ?
などと
ちょっと思ったりもしたが

じぶんも歳を重ねてきてみると
「今でもありありと覚えている」
という感覚が
本当どころではなく
今もこの瞬間
そのまま
ここに展開していることの多いのに
驚かされてくる

今は夏
このところ
ずいぶん蒸して
暑苦しい空気に包まれているが
今年の
今の
この夏の
昨日今日の
この蒸し暑さばかりか
何十年も前の同じような蒸し暑さも
つい数年前のそれも
十年ほど前のそれも
あゝ、驚くなかれ
みんな
ここにあって
すべてがありありと見えている
じっとりと肌にある

ちょっと声をかければ
きっとこちらをふり向いて応答してくるはずだ
もう今の世の中には見つからないような
昭和の一時期のかたちの扇風機の
あそこ
あの近くにいるあの人も
団扇を物憂そうにあおぎながら
本を読んでいるあの人も
高校の部室の
風通しの悪い部屋の奥で
秋の文化祭のための会議をしに
集まった汗臭い面々も
夏休みの水撒き当番を任されて
いっしょにホースを伸ばしている
小学校の同級生も
夏の旅のさなか
来ない電車を待ちながら
ホームの端のエノコログサなんかを
つんつんしている
もう疾うに逝ってしまった
あの人なんかも

歳をとった人たちが言った
「今でもありありと覚えている」は
あれは
そう、ことば足らずの表現で
きっと
本当はみんな
「どの瞬間もここにあるよ
「どの時間もみんな今あるんだよ
「消え去っていく過去だと思ったのに
「過去というのは流れ去ってしまうと思っていたのに
「こんなにたくさんの過去の時間が
「混ざりあってしまいもせず
「混濁もせずに
「みんなくっきりとひとつひとつ
「ここにあるんだよ
「歳をとらないと
「これは実感できてこないみたいなんだよ
言いたかったのではないか
こんなふうに

幸福だったと思えたことも
つらいと思えたことも
どれも消え去りなどしないで
みんなくっきりと
ひとつひとつ
今もあり続けていて
どれが今なんだか
どれが今でないんだか
そんな区別はもう
どうでもよくなってしまってねぇ…

ちょっとことば巧みな人なら
きっと
そんなふうに言うのでは
と思う
今になってみると

そうして
今になってみると
いっそう
思う
まだ小さかった頃や
若かった頃のわたしが会った
何人かの大人たち
老人たちは
戦争の時
つらい場所に
つらい時に居合わせたと聞かされたものだが
自分の赤ん坊の首を絞めて
満州を逃げのびてきたという
町の布団屋の小母さんや
一兵卒で中国人の首を切らされたという
酒屋の小太りの小父さんなども
やはりいつまでも
いつまでも
消え去らない過去を
ここにある時間として
瞬間として
子どものわたしがエプロンに纏わりついたり
まわりをちょこちょこ付いてまわったりした時にも
ありありと
見続けていたのではないか
あの時のことを
外の光景も
こころの中のことも
すべてを
その時間のなかに展開していた
すべてを

高校の生物の先生は
まだ少年だった1945年のある日
田舎まで飛んできた米軍機の機銃掃射から逃れようと
高台の線路わきを友だちと走って逃げていたら
一発が線路の鉄に跳ね返って
となりの友だちに当たったらしく
急に友だちの体が弾け飛んで
驚くほど遠くへ
遠くへ
飛び去っていったのを見た
戦闘機が去って
友だちの落ちたところへ行ってみると
腰と背が裂けていて
もう友だちは息絶えていたが
「それよりなにより
「人のからだがあんなに簡単に
「遠くへ
「遠くへ
「飛んで行ってしまうものなんだって
「それに驚いて
「ヘンな話だけれど
「科学の法則っていうものの不思議さに
「グッと引っぱられてね
「もっと興味を持たされたんだ
「あの時
この先生も
きっと見続けていたに違いない
わたしにこれを話した時に
遠くへ
遠くへ
奇跡のように
軽々と飛ばされていった友だちの体を
高校のあの生物研究室にいた
あの時にも

今ここにあり続けていても
過去の時間の中にあったはずのあれらの感情は
しかし
どうやら
ひとつひとつ
透明の標本箱のようなものに収められていて
蓋をあけて取り出し
よく温め直してみると
水戻しされるように蘇ってくるものの
その時そのままの感情ではなく
今までの経過を抱え込んでもっと冷静になり
もっと多層的な見方のできるようになったまなざしによってのみ
読みほぐされていく感情らしい

とすれば
起こったことは
どれもそのままなのではなく
成長や変化を続けているということなのか
起こったことの輪郭はそのままでも
輪郭の中の内容は深まり
多層化され続け
「アッ!」と一言発しただけの単純な声でさえも
無限の音階にいつか膨らまされて
ひとつの世界に
いつのまにか
なってしまっていくということなのか…



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