2018年11月25日日曜日

おい、大丈夫か!

 

布巾とか
タオルとか
もちろん
いろいろに使う手拭いとか

かれらには
だいぶ前から
ずいぶん
注目しているんだ

水を吸ってくれた後の
あの
くちゃくちゃぐあい
あの
くちゃり方
あれが
なんとも
堂に入っているじゃないか

完膚なきまで
やられた
もうグタグタだァ
という
あの
どうとでもしてくれィ感が
こたえる

台所を拭いた後の布巾なんざ
もう
もう
もう
みごとなもんだ

すっかり放心して横たわっている
あのさまを
とてもじゃないが
放ってなど
おけない

手を
差し伸べてしまうじゃないか
おい、大丈夫か!



おお、いまよ



なにがなつかしいといって
いまほど
なつかしいものはない

おお、いまよ

いまここにあるかのようでいて
すぐにいまでなくなってしまう時よ

あらかじめなつかしすぎるものとして現われ
あらかじめなつかしすぎるものとして現われる次の時に変わられる
いまよ

おお、いまよ

なにがなつかしいといって
いまほど
なつかしいものはない



まろい詩



まるい詩を見つけたので
まるみをまるまると愉しんでいた
だんだん
愉しみはまろまろしてきて
まろまろしさに
こころも身もまろまろ
もろもろ感もどこからか合わさり
むろむろ感のようなものも混じってきたようで
だんだん
まろまろというより
るろるろ
ろるろるしてくる感じもして
これはもう
まろい詩



2018年11月23日金曜日

画伯

 
大空の斬首ののちの静もりか没ちし日輪がのこすむらさき
                                                                春日井 建


トイレのドアを開けたまゝ
トイレの便器に座って
トイレの天井から壁を隔てて廊下の天井までを一望すると
グレー
もっと濃いグレー
もっともっと濃いグレー
もっともっともっと濃いが黒にはならないグレー
が入り組んで花開いていて
わが家にはトイレの天井画伯がいたのか!
わが家には廊下の天井画伯がいたのか!
わが家にはトイレと廊下のあいだの天井に近いところの壁画伯がいたのか!
と驚嘆してしまい
しばらく便器に座り続けて
大空が
グレー
もっと濃いグレー
もっともっと濃いグレー
もっともっともっと濃いが黒にはならないグレー
でなどまったくない
オレンジ色
茜色
紫色
紺色
濃紺色
群青色
などなどなどなどに
大きく染まりはじめる
いわゆる
端的に言って
要するに
率直なところ
すなわち
夕暮れを迎える頃に入っていったのであった



モウ モウモウ

 

むかし むかし、 そのむかし、とても たのしい ころのこと、
いっぴきの うしもうもうが、みちを やってきました。
みちを やってきた、うしもうもうは、くいしんぼぼうやという、
かわいい、ちっちゃな、おとこのこに、あいました……
ジェイムズ・ジョイス『若い芸術家の肖像』(丸谷才一訳)

  
大さじ4杯ほどのヨーグルトをボウルに入れておき
バナナを食べ
あとに
ヨーグルトを食べる

すこし気持ちが悪くなる

死ぬ
のかも
しれないぞ
もう

もう

モウ

モウモウ

モウモウさんから来た
ヨーグルトだもん

(ふざけてんなァ
(と思う人は
(ジェームズ・ジョイスの『若い芸術家の肖像』を
(読んでない人
(楽しまなかった人
(楽しむセンスがない人
(つまり
(ムキョーヨーな人
(人間とはいえない人
(ああ、こわ
(おお、こわ

十二指腸
そのあたりの
消化器官が
冷えるからかな
バナナの
(あるいはバナナの糖分の)
消化に
手間どっているところに
冷たいヨーグルトが入っていくので
無理が生じるのか

モウ

モウモウ

何度も試してみて
ヨーグルト
大さじ
3杯ほどなら
この小さな吐き気のようなもの
起こらない
知っている

(お!経験論!
(イギリス哲学ですか!
 (ジョイスは
 (すっさまじく
 (反イギリスであったがナ

バナナ
食べなければ
ヨーグルト
4杯
ほどでも
じぶんの現在の
十二指腸
場合
気持ちは悪くはならない
知っている

食べあわせ?
or
食物の温度?

おお
毎日の食事のようなありきたりのこと
でも
ひとつ
ひとつが
小さな実験であり続け
いつまで経っても
結論が出ない
にャ

ほんの
小さな量のちがいが
食後の
[疲れなさ]
[こころよさ]
決定的に
するのも
よォく
わかっているが
適切な量
定める
成功する
なかなか困難

試して
みようかな
今度
ヨーグルト
生ピーマン丸ごと

モウ

モウモウ




2018年11月22日木曜日

この内面こそが最高のスマホ画面



ふつうに目はひらいて
前をむいて
街を
歩いているのはかわらないものの
視野を
あえて狭めて歩くようになって
ひさしい

視界に入ってきても特に見たいわけでもないもの
には
無用の焦点化が起こらないよう
注意しながら
まずは心の視界から
そして視界そのものから
流れ去るままにする

見たくないものを見ないようにしているのではない
特に見たいわけでもないもの
無用の焦点化が起こらないよう
注意しながら歩く

理由は簡単で
特に見たいわけでもないもの
無用の焦点化が起こらないよう
注意
することから
あまりに豊かな内面が一気に醸成されるのに気づいたから

世界はこの内面でしかない
世界を好きなように守らせてもらう

この内面こそが最高のスマホ画面




恋人はNの恋人


 
GがNへ進んでいく間もAは
たぶんR(だと思う、が、ひょっとするとJ)のほうへと
やや右寄りに滑りながら
進んでいく、(…というよりは、)流れていく

(流れていく…
という表現のほうがふさわしいように感じるが
もちろん 進んでいく
と言ってもよいし
そちらのほうが慣例的とも言えそうだし)

RはむしろGを眺めている
(凝視はしていないように感じる)

〔川の両岸に並ぶ木々はムツカラだろうか…
長方形に見える葉に特徴があり
寄ってくる小鳥たちにはすこぶる美声のものが多い〕

恋人はNの恋人
それを知っているのか、Gは?
R(だと思う、が、ひょっとするとJ)のほうへの
Aの右滑りの
かなり繊細なさまに
午後の陽がナイフのように射している

恋人はG、A、Rではない
Jでもない
それははっきりしている

恋人はNの恋人

川のむこうにある沼をNは好む
Nはいま止まっているが
沼のほうへ歩み出すのではないだろうか
午後の沼をNは好む
沼の何を好むのか、わからない

Nが沼のほうへ向かい出したらGも
追って行くだろうか
Aの右寄りの滑り行きとともに
もうひとつ曲線が生まれることになるだろうか
沼への曲線は左へ向かうものとなろう

違う方向へ伸びていく曲線を想像すると
宇宙のうちの
求めているなにかに触れられる予感がする

恋人はNの恋人
…根拠は?

不確かかもしれないのに
信じて
しまっているのか

Nが歩み出した

沼へ
かどうか
まだ
はっきりとはわからない



2018年11月18日日曜日

ことばのこととなると


                                                                        
ことばのこととなると
多く費やす側のほうが優れているとでも
思い込まれる場合が多いが

しかし
受け手となるほうが
はるかに
高度に優れているとぼくは見ている

語られ
記されたことばは
受け手にとっては現象であって
聞いたり
読んだりは
どう怠惰に行おうとも
まったくこちらのものではない
まったくの他者の
現象の
探索となり
解読の試みとなる

語り
記すことは
科学とはなりえないが
聞き
読むことは
どう怠惰に行おうとも
科学のはじまり
他者や異物と向きあう時にのみ
知ははげしく動きはじめ
その時
あれほどさまざな宗教神秘主義が求めてやまない無我が
いやおうなしに発生する
知は
無我の瞬間にしか働くことはないから

手にとられなければ
本は
ただの場所取りの厄介物
手にとられ
黒い線のシミを前にして知が発動する時
異次元がはじめて開ける

ことばを
ことばとするのは
受け手のみ
受け手がみずからのことをすべて捨てて
知の降臨を受ける時のみ

…なんと
古い読者論の一端か
しかし
こんなことも
ときどき
誰かが思い出さないと
すぐに
忘れられてしまい
語り手や
書き手ばかりが
不用意に
称揚されてしまったりする

どこまでも
対話
でしか
ことばは
ことば
たりえないことが
奇妙なヒロイズムから
忘却されてしまって



きょう東京は曇り


 
きょう
東京は曇り

グレーと
ホワイトと
ところどころ
ヴァイオレットの
重い雲
軽い雲

ずいぶん安易な重ねかたで
シンプルな
マーク・ロスコ

曇天が
どんなに美しいか
見続けていて
しみじみ
確認し直している

曇り空が大好きだったエレーヌ・グルナック
「見飽きない…
「ほんとうに大好き…
なんどとなく
宇宙空間に放たれ
すがたを消したようでも
どこか
星雲のあたりを
どこへ向かってか
直進中の
そんな言葉たち

きょう
東京は曇り

グレーと
ホワイトと
ところどころ
ヴァイオレットの
重い雲
軽い雲



ぜぇんぶかっさらって

 
他人のことは
どうこう
言わないことにしましょう

とにかく
わたくしの場合
この世から
いろんなかたちで
かたっぱしから情報を吸い取って
べつの世へと
持ち去るために来ておるのです

じぶんから出る
汗一滴
垢ひとひら
足あとひとつ
名前も
いろんな思いつきも
拵えものも
残してなんか
行く気はござりませぬ

なにひとつ
残さず
ぜぇんぶ
かっさらって
吸い取って
べつの世へと
持ち去って行きます



やっぱり1500年ぐらいしたら

 
地球に住んでいると
ふつうに
放射線を浴びていることになるらしいが
だいたいは
年に1ミリシーベルト
ぐらいだそうで
大昔から
その程度の量を浴びながら
御先祖代々は
生きのびてきたのらしい

浴びすぎると
死んでしまったりするのは
美酒だの
好奇の視線だの
深なさけだの
そんなのと同じことで
2シーベルトで
死ぬ人が出はじめ
4シーベルトで
半数ぐらいは死ぬことになり
8シーベルトになると
もう全滅
ということになるらしい

年に1ミリシーベルト
ぐらいなら
まァいいかな
なんて
気長に思っていても
いずれ
4000年もすれば
かなり危なくなってくる
悠長に
8000年も
地球にいたりしたら
全滅組に
ぜったいに入ってしまう

そこでだがね
やっぱり
1500年ぐらいしたら
べつの星に
移ったほうがいいと
思うんだがね
長くても
3000年ぐらいに
しておくべきじゃないかと
やっぱり
思うんだがね



疎すぎるから



上野から
日暮里までの
わびしさは
高台に見える
谷中のお墓のならぶ
わびしさか

日の暮れる里
日の暮れる里
むかし
つぶやきながら
電車で
過ぎていった
あたり

荷風*なら
数行で
江戸の深みに
入る地を
東京っ子というのに
疎すぎるから
江戸の
文化の深みを
浅く
お墓のならびと
見るだけで

日の暮れる里
日の暮れる里
つぶやいて
だから
わびしい
無知
過ぎるゆえに


*永井荷風「上野」(昭和二年六月)
一昨年の春わたくしは森春濤の墓を掃ひに日暮里の經王寺に赴いた時、その門内に一樹の老櫻の、幹は半から摧かれてゐながら猶全く枯死せず、細い若枝の尖に花をつけてゐるのを見た。また今年の春には谷中瑞輪寺に杉本樗園の墓を尋ねた時、門内の櫻は既に散ってゐたが、門外に竝んだ數株の老櫻は恰も花の盛であつたのみならず、わたくしは共幹の太さより推測して是或は江戸時代の遺物ではあるまいかと、暫く佇立んでその梢を瞻望した。是日また大行寺の門前を通り過ぎて、わたくしは偶然東都事記に記載せられた垂絲櫻の今猶すこやかである事をも知ったのである。わたくしは櫻花の種類の多きが中に就いて其の樹姿の人工的に美麗なるを以て、垂絲櫻を推して第一とする。
谷中天王寺は明治七年以後東京市の墓地となった事はくに及ぶまい。墓地本道の左右に繁茂してゐた古松老杉も今は大方枯死し、櫻樹も亦古人の詩賦中に見るが如きものは既に大抵烏有となったやうである。根津權現の花も今はどうなったであらうか」。


パンジーなら


 
子どもでいっぱいの
でも
猫だって
ときどき来て
フンなんか
していくやつもいる
小公園

これから
冬が来るというのに
パンジー
きれいに植えて
いっぱい
とりどりの色
いっぱい

やさしい大人がいて
うれしい
小公園
パンジーなら
猫だって
齧ってはいかないから
あんしん



いつもいっぱい


 
お昼どき
幼稚園のわきを通ると
おべんとのうたを
歌ってる

おべんと
おべんと
うれしいな
おてても きれいに なりました
みんな そろって ごあいさつ

そんな歌詞だったか
おてても きれいに なりました
って
言うのか
一番は

じぶんより
はるかに下の世代のうただったので
幼稚園で
歌ったこと
じぶんは
ない

おべんと
おべんと
うれしいな
なんでも たべましょ よくかんで
みんな すんだら ごあいさつ

こっちの
歌詞のほうが
覚えているのは
どうして?
 なんでも たべましょ よくかんで
どうして?

じぶんの頃は
幼稚園では
お昼どき
どんなうた
歌ってたかしら?

思い出そうと
してみるけれど
わからない
どんな
うただったか

いつも
いっぱい
歌っていたから
どれだったか
わからない

いつも
いっぱい
しあわせだったから
かえって
わからない
ひとつ
ひとつ
しあわせが