ある時にある場所で起こったことを
覚えている。
記憶している。
印象に残している。
脳裏に焼き付けている。
……
……どう呼んでもよいが、
それはどうして可能なのか、起こりうるのか、と
数日の休みがとれた時に考え続けていた。
時空としてのひろがりと
ある程度の持続のある現象は、どのように、
脳にくっつくのか?
意識に…と言い換えてもいいのか、言い換えるほうがいいのか、
意識にくっつくのか?
情報となって、さらには原子連結となって、
脳細胞の連結糸に電子的に貼り付く、あるいは帯電する
そういうことか?
そうだとして、しかし、時空の一空間として縦横に思い出され得る
とした場合、この回想の立体性はどのように維持されるのか、
どのように瞬時に回復されるのか、あるいは創造されるのか、
そんなことを
数日、
なにもせずに考え続けていた。
心の一区画には大洋がつねにあるのでそこへのドアを開ければ
目の前には大海原があり、足は砂浜にめり込んでいる
椰子の実に穴を開けてストローを差し込んだものを
むこうの浜辺のバーのマスターが持ってきてくれたので
ときどき吸ってみるのだが
椰子の実のジュースというのは水っぽいばかりで
そんなに美味いものでもない
けれども水がわりにときどき飲む
椰子の実を抱えて飲むという姿勢にリゾート感があるから
……そう、あらゆる経験的記憶は
どのように脳や意識にこびりつくのか、残るのか、
こびりついたり、残ったり、回復できたりするのならば、
経験的記憶は物質でなければならないか、
物質に還元されうるなにか、また、即座に物質に戻されうるなにか
でなければならない
はたして、経験的記憶はそのようなものなのか、
また、経験的記憶ばかりか、経験そのものも
物質か、物質的ななにかでなければならないのではないか……
そう考えていくと、今、まさにここで起こっている経験も、
これ自体、物質でなければならない?
逆に、すっかりひっくり返して、
記憶とは完全に霊的な現象の一部であると仮定してみたほうが、
やはり、
いいのだろうか……
椰子の実のジュースというのは、
けっこう量が多くて、
なかなか飲み終わらない
振ると、中でちゃぷちゃぷと音がする。
このちゃぷちゃぷ音が物質であると考えてみることに抵抗は少ない 。
しかし、この音とともに、
いま目の前に広がっている青い海や空や
たまに吹いてくる微風や
広大な砂浜にぽつぽつと数人しかいないことからくる
巨大な開放感や……
これらがみな物質である
と考えてみることにはけっこう困難が残る
しかし
記憶
思い出
これらが物質でないかぎりは
物質である脳や神経によっては扱い得ない
あるいは
脳や神経などがけっきょくは物質ではないのでなければ
記憶
思い出
これらは非物質としては扱い得ない
砂浜のむこうから
女と少年が走ってくる
ジャンヌとヒロ
当然こちらへむかって来るのだが
きっとこの肉体を通過してべつの方向へと走り抜けていくことだろ う
抱えているこの椰子の実も
かれらは通過して行けるだろうか
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