2020年7月30日木曜日

ヘレヴェッヘ指揮のシューマン『ピアノ協奏曲』


ひさしぶりに、ヘレヴェッヘ指揮のシューマン『ピアノ協奏曲』を聴くと、やはり良かった。
第三楽章を聴いていると、最近の50年ほどは、これを本当に超える楽曲はついに作られなかったのではないか、と大げさなことを考えてみたくさえなる。いい曲や素晴らしい曲はたくさんあるが、ここまで大げさに言ってみたくなるところが、シューマンにはある。
文学にも通じ、音楽批評家でもあったこの緻密な思考者、シューマンが好きだ。

フォルテピアノはアンドレアス・シュタイアーが弾いている。シャンゼリゼ交響楽団による古楽器演奏なので、シューマンの頃の音に近くなっているはずだ。
近くなっている、というより、非常に近くなっているとさえ思ってもいいのかもしれない。
使われたフォルテピアノは、ヨハン・バプティスト・シュトライヒャーが1850年に作ったもので、リストやクララ・シューマンはつねに彼のピアノで演奏した。母のナネッテ・シュトライヒャー=シュタインは当時有名なピアノ製造者、音楽家、教師、作家で、ベートーベンやゲーテの親友だった。

制作中、まだ結婚していなかったクララに、「ヴィルトゥオーゾたちのための協奏曲は、ぼくには書けない」とシューマンは手紙を送っている。だから「なにか別のものを考えないといけない」とも。
最初のスケッチをしてから18年近くもかかることになった長い創作期間の間には、管弦楽の扱いに習熟せずに放棄していた時期もある。
師事したフリードリヒ・ヴィークには構想を打ち明けていた。
その娘クララへの思いの高まりから、曲はクララに捧げられることになったが、この時に完成したのは『ピアノと管弦楽のための幻想曲』で、初演後、出版を打診した三つの出版社はどこも拒絶、楽譜は放置されることになる。
それが幸いしたといっていいのか、この曲を元にして、間奏曲とフィナーレが書き加えられて『ピアノ協奏曲』が完成されていくことになった。

46歳でライン川への投身自殺を図ったシューマンについては、とりあえずは不幸な人だったと言っておきたくもなるが、よほど詳しくしないかぎり、一冊の伝記に容易には盛り込めないほどのあまりに多くの出来事や問題を思えば、充溢し切った人生の人と、やはり思える。
彼の精神障害は、今では青年時代の放蕩のゆえの梅毒の症状と、そのための水銀治療のためだと結論が出ているらしいが、それにもかかわらずクララに8人も子を産ませ、しかも与謝野晶子さながらにクララに働かせたのを思えば、無頼派作家などが足元にも及ばない火宅の人ぶりに、いっそうの興味を惹かれる。  
 ゲーテやショパン、リストの尊敬と感嘆を集めた、「力強く、知性的に、正確に」(リスト評)弾くピアニスト、クララをして、家庭内では女中並みの労働者のようにしてしまうシューマンという男とは何なのか、音楽とは別の関心の対象としないわけにはいかなくなる。

作曲家たちとシューマンの関係は、追っていると時間を忘れるほど面白いが、シューマンの保守性を批判し、「行かず後家」と腐したワグナーの態度よりも、シューマンが「諸君、脱帽したまえ、天才だ」と賞讃したショパンが、シューマンの曲には全く無関心だったことのほうが面白い。 
そのショパンがクララ・シューマンを絶賛し、クララは夫ロベルト・シューマンの作曲を賞讃している。リストとは軋轢と相互理解とを分かち合い、メンデルスゾーンについては終わった人間としての断罪を行い、自分を腐すワグナーの才能は認めつつも、そのオペラは認めないところなどは、ワグナーを避け続けたブラームスに近似して、これもまた面白い。
そう、そのブラームスは、シューマン死後40年を生き延びたクララ・シューマンの危篤を聞いた時、汽車に飛び乗ったものの、各停列車に乗ってしまったため葬儀には間に合わず、埋葬直前の棺をわずかに見ることができただけだった。

20世紀の、誰よりも抜きん出た文芸批評家、文芸理論家のロラン・バルトは、シューマンを好んだ。彼は楽譜が読めたが、作曲家たちの中でもシューマンの楽譜を読むのを好んだ。 
バルトを虜にする複雑さと味わいをシューマンの楽譜は持っているからだろう、と思い、私は自分でもシューマンの楽譜をめくって見たりしたが、音楽全般への興味が昂進するにつれ、リヒャルト・シュトラウスのオペラなどの楽譜を好めなかったバルトの「保守性」というものに、だんだん気づくようになった。

1980年、信号待ちをしていた64歳のロラン・バルトは、歩道に飛び込んで来た車に轢かれ、入院した病院で院内感染から死去するに到る。 
フーコーに推薦されてフランスの最高教育機関コレージュ・ド・フランスの教授に就任し、知の頂点に立った4年後のことだったが、あれだけの知的な煌びやかさも、若い頃の低所得家庭での青少年期、肺結核、書けなかった博士論文、大学教員資格試験失敗などを経験してきた末の、最後の花道のようなものでなかったか、とも思える。

「お前の中から警句的な、機知的なものを取り除けそれはお前の本性にはない。単純に、自然に書け。ゲーテはつねに良いお手本だ。正確さと簡潔さに慣れよ。表現の連続性にも。意味をぴたりと射当てる言葉を見出すまで、探し続けよ」
 つねに物書きであり、日記を書き続けていたシューマンの、18311017日の記述である。




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