永井荷風は
フランス語はよくできたはずで
『珊瑚集』は名訳だと言われているし
だいたい
森鴎外と上田敏に推薦されて主任教授となった
慶応大学文学部では
フランス文学とフランス語を講じたのだから
できないはずがない
ところが
彼のものをあちこち見ていると
本当にフランス語が正確にわかっていたのか
ちょっと首を捻ってしまう時もある
『断腸亭日乗』の大正六年十二月十七日の記述には
こんなことが書かれている
十二月十七日。午後九段を歩む。市ヶ谷見附の彼方に富嶽を望む。
おいおい
イリユージョンペリユデイ
は
ないだろ
フランス語とフランス文学の先生が
それは
ないだろ
これはバルザックのIllusions perduesのことで
日本語では『幻滅』と訳されている長編小説だが
音に近づけて表記しようとすれば
イリュズィヨンかイリュズィオンとしたほうがいいところを
あえて
イリユージョンと書いているのは
これはまだ
便宜的
と見てもいいけれども
ペリユデイ
は
そうとう
まずい
ペルデュ
でしか
あり得ない
ひょっとして
フランス語で読んでいるのでなく
だれかが訳した翻訳物を読んでいて
そのだれかさんが
間違って
イリユージョンペリユデイ
などと
題名に書いていたものだろうか
しかし
荷風ほどフランス語のわかる人なら
ペリユデイでは
だめだろ
と
すぐに気づくはずである
で
どうしちゃったんだろ?
と思わされる
わけ
ところで
同じ年の十月二十七日には
夜中に
クチナシの実を煮たりしている
夜梔子の実を煮、その汁にて原稿用罫紙十帖ほど摺る。
荷風は自分で原稿用紙の罫線の印刷もしていたのか
と
ちょっと驚かされる
当時の物書きは
そんなものだったのだろうか?
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