2022年7月6日水曜日

生涯青二才

 

 

Il y a peut-être une aventure

entre le « pas écrire » et le « pas être ».

Roland Barthes, Colloque de Cerisy, 1977

 

 

 

 

この世に思い残すことはない

という言い方が

ときどき粗雑に口にされたりもするが

自分という意識にとっての将来がこの世でないところへと

伸びていくと

だんだんと感じることが多くなってくれば

思いは

この世でないところへと伸びる

 

伸びる

といっても

そう感じるだけのことで

ずいぶん曖昧な印象に過ぎないとも

もちろん言える

 

この世でないところへ

とりあえず表現してみても

この世さえ

把握用フレームの選び方によりけりで

どんな印象も得られるのだから

この世でないところとなれば

正確な手ざわりさえない把握用フレームを

なんとなく取捨選択して

漠然の上にも漠然としたイメージを思ってみるだけのことで

すこしでも正確な認識を得たい

そうした認識にもとづいて感情も形成したいとなれば

この世でないところ

という

思念遊戯は

やはり適当なところで捨てたほうがよかろう

と思うことになる

 

そこで

ときどき

この世でないところ

ついでに

この世

ないのではないか

少なくとも

自分と自認したがり自称したがるこの意識は

その双方とも

道具としてしかるべく使えるほどには

知っていないのではないか

ひょっとしたら

ただの言葉の綾に

長い歳月

乗せられてきただけのことだったのではないか

と思い到る

 

日本を縦断して

来る

来る

とマスコミが騒いでいた若い夏の台風も

どこかで崩れ果て

それなら

少なくとも

湿気と気圧の変動と大雨だけが寄せてくるだろう

とマスコミが修正した情報さえも崩れて

ときどき小雨を降らす曇天が暁にこの都市には寄せてきたが

 

しかし

しかし

この湿気や

この雲の垂れ込めなどは

否定しようのない真実ではないか

などとさえ

わたしは

思うことができないでいる

 

目に見えるもの

肌に感じるもの

聞こえるもの

鼻に届くにおい

それらさえ

まずは信じないというところから

わたしは学問とのつきあいを律儀にはじめてきたのだし

人類は遅く見ても16世紀頃からは思考を鍛えはじめてきたではないか

 

人類みな

この愚行の21世紀に

あれやこれの盲信や

宗教の絢爛豪華なまやかし体系の数々に帰順していこうとも

わたしはわたしの小さく貧しい学の器を抱え続ける

いま目に見えているものは

やはり本当に存在するとは言えず

存在していないとも言えず

真実とは言えず

真実でないとも言えず

圧倒的な逆噴射で「では存在とはなにか?」

「では真実とはないか?」

と突きつけられ続けている

このことの真実だけはわたしは無視できず

このことだけを土台にする他ないことは否定できない

 

われ思うゆえにわれ在りと書いたデカルトは

われの実在を確信したのでなどなく

主語を立てないと文(=思考)が機能しないフランス語で作文しただけのことで

主語を隠して「思うゆえに在り」としたほうが

たぶん彼の言いたかったニュアンスに近づける

言いたかったのは

思いと在ることの連結であり直結だ

思いがなければ在ることについての拘泥もない

諸君!思いを思え!

思いとはなにか?

われも在ることもすべて包含する思いとはなにか?

とデカルトは言ったのだ

ど真ん中の仏教哲学だったのだ

和尚デカルト!

喝!

 

こういったことを

ああだこうだ

こうでないかもしれない

ああでもないかもしれない

だとしたら

どうなのだ?

くだくだ

ぐだぐだ

死の瞬間の意識の崩れまで

消滅まで

思い続けない人間というものをわたしは信じない

そんなこと

とうに解答が出ているとか

どうせ解答は出やしないとか

人生を知らぬ青少年の哲学癖に過ぎまいと馬鹿にして

概念の研ぎ澄ましや観念の取捨選択に腐心しない中年や老年の側に

わたしは生涯青二才として

立つことはない

 

ヘーゲル『精神現象学』!

「意識は、あるものを自分から区別する、と同時に、

そのものと関係する。(…)

そして、

この関係の、

または、あるものの意識に対する存在の、

規定された特定の側面が

である」

 

湿って

暑い夏の一日が

今日も

いま

始まろうとしている

 

詩歌の連のひとつとしてなら

この程度に書くのが

慣例であろうし

散文より語数を減らす倣いの形式にあっては

相応しかろう

 

しかし

湿っている、とはなにか?

暑い、という複数の温度比較の上でのみ束の間役立つ形容詞を

あたかも碑文のように刻む詩歌慣例の愚かさとはないか?

無限の意味性にはち切れんばかりの「一日」を

暑い夏の一日!

などと通俗軽薄短慮に作文して

われ何事かを言えり!

と慢心する愚鈍な精神性とはないか?

 

ロラン・バルト!

ロブ=グリエにむけて!

「たぶん、

『書かないこと』と『存在しないこと』の間には

ひとつの冒険がありますね」

(スリズィ--サル国際文化センターでの討論会、1977






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