恥かしや亡き跡に、姿を返す夢のうち、
覚むる心は古に、迷ふ雨夜の物語、
申さんために魂魄に、うつりかはりて来たりけり
世阿弥 『忠度』
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・東武方面総監部で
三島由紀夫が割腹し介錯されて死んだのは
昭和45年11月25日12時13分頃だったという
享年四五
森田必勝が続いて果てた
享年二五
昭和45年12月13日の毎日新聞にかつて載った
三島由紀夫の解剖所見を読みながら
私はパンを二枚焼いて
イタリアの有名な
ココア入りヘーゼルナッツスプレッド「ヌテラnutella」
食べた
350g入りの大きめのボトルである
これはふつうのスーパーマーケットでは扱っておらず
カルディで扱っている
イタリアのスプレッドとはいえ
このボトルの裏を見るとオーストラリア製となっており
「ヌテラ」はすでに国際化しているものと見える
輸入は日本フェレロである
「ヌテラ」については
かつてイタリアから輸入していた業者と話したことがあった
旧友のイタリア通の溝渕美枝子と
イタリア文化会館のパーティーに出た時
イタリアとの通商を行なっている人々と会い
いろいろな話を聞かされた
イタリア人は「ヌテラ」なしには生きられないと聞かされ
そこまでイタリア生活を知らなかった私は驚かされた
ひとつ外国があれば
そこに繋がって情熱を傾けたり
生計を立てている多くの日本人がいる
この時も
その一端を
二時間ほどだったか
見せられた
三島由紀夫
十一月二十六日午前十一時二十分から午後一時二十五分、
森田必勝
(船生助教授執刀) 死因は頸部割創による切断離断、
私が焼いて食べたパンは
スーパーマーケット「三徳」の調理部門「シェフワールド」製の
「イギリスパン」である
「イーストフード・乳化剤を使用していません」と書かれていて
食パンの中では比較的余計な味が少ないパンで
さっくりと焼ける
スーパーマーケットのパンとしては
良質な部類と思われる
三島由紀夫の親友で
当時
警視庁の機動隊警備課から離れて人事課長だった佐々淳行は
上司の土田国保から命じられて
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・東武方面総監部へ駆けつけた
すでに
三島由紀夫も森田必勝も
果てた現場に着いた時のことを
佐々淳行は
こう語っている
現場に着くと「脈はあるのか、体温は」と、
すさまじい現場だった。赤絨毯の上を遺体近くにすすむと、
(伊藤圭一「文藝春秋」平成13年1月号)
三島の首は目を見開いたままだったが
「それではあんまりだということで、
とも
佐々淳行は語っている
私は
パンを食べた後に
ミックスナッツもすこしつまんだ
これは
後楽園のTOKYO DOME CITYに入っているカルディで買ったもので
KALDIの「素焼きMixed Nuts」のBIG SIZE袋であり
「食塩・油不使用」となっている
この20年ほどのあいだに
アーモンドやクルミなどを別々に買ってきてつまんでいたのが
だんだんとミックスされたものを買うようになった
ナッツの摂取にも
私なりのなかなか複雑な個人史があるが
そこのところは大胆な省略と編集を旨とする詩歌形式では
語り得ない
垂れ流しのよう饒舌な散文でしか
語ることはできない
ところで
KALDIの製品の生産者や販売者を見ると
「キャメル珈琲」と書かれている
もともと喫茶店向けのコーヒーの卸売り店で
妙に私に親近感があるのは
世田谷代田駅にほど近い世田谷区代田2丁目31番8号に
この店があったためだった
KALDIは「キャメル珈琲」が作り出したブランドで
第1号店である下高井戸店の1986年出店以降に店数を増やした
世田谷の代田に住んでいた私の視野に
「キャメル珈琲」の名は
知らず知らず入っていたし
新宿に出るのには世田谷代田駅も最寄り駅のひとつだったので
駅周辺の風景の中に
この店名も見ていた
KALDIを利用するようになったのは
下北沢店に頻繁に通うようになってからだが
とりわけエレーヌ・グルナックが
下北沢のKALDIを好んだ
彼女は「カルディ・ファーム」と呼ぶのがつねだった
三軒茶屋に私が移り住んでからは
キャロットタワーの1階に入ったKALDIは
ほぼ毎日のように見に行く店となった
少し賞味期限の迫った商品をセール販売することが多く
買う予定もないのに
ちょっと立ち寄ったために
たくさん買って帰ることも少なくなった
世田谷を発祥地とするKALDIには
私が王子神谷に住んだ期間は遠ざかったが
都心に越してきて後楽園のTOKYO DOME CITYが近くなって
たまたまKALDIを見つけてからは
なにかというと散歩がてらに寄る場所のひとつになった
三島由紀夫は
1970年11月25日に死ぬ前に
池袋東武百貨店で「三島由紀夫展」を催した
11月12日から17日の短い展覧会だが
幼かった私はこの時
母と東武百貨店に立ち寄り
この展覧会の中を歩きまわっている
子どもにはなんの興味も持てない催しだったが
おとなしく付いてまわった
大人たちが集まっているところがあって
隙間から覗くと
バッタに似た丸刈りのオジサンが座っていて
サインかなにかを書いていた
子どもにはつまらない光景だったし
すぐ目の前にいるそのオジサンも
おもしろそうなひとには見えなかった
11月25日の朝日新聞夕刊には
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・東武方面総監室の中に並べられた
三島由紀夫と森田必勝の首の写真が載った
私の家では当時朝日新聞をとっていたので
子どもの私もそれを見たが
この生首がたしかにあのオジサンのものかどうか
そこまでは見定められなかった
あまり鮮明でない写真で
しかも脱ぎ捨てられたかぶり物のように小さい頭だった
しかし
子どもの私は
翌日木曜日から
三島由紀夫ごっこをくり返すことになる
先生がいない時の教室で
教壇の上に上がって
なんやかやがなり立てて
教壇の上や
教壇を飛び降りた床に座って
「えい!」
と刀で切腹するふりをして
「おい、介錯しろ!」
と友だちに頼み
頼まれた友だちも気合いを入れた声を出して
「えい!」
と刀で首を切るふりをするのだ
役柄を友だちどうしのあいだで交替しあい
何人かで
飽きもせず切腹し続ける
1970年は
こうして
こんな遊びをくり返しながら
終っていったものだった
9月13日まで
大阪で万国博覧会が行なわれていた年で
なにかと浮かれた年だったが
万博が終ってしまって
まさに『宴のあと』よろしく
日本中がちょっとさびしく
むなしくなってしまった感じの頃に
三島由紀夫は盛大に後夜祭をやらかしてくれたように
子どもたちは感じた
だいぶ経ってしまった現代のひとには想像もつかないだろうが
1968年2月20日から24日の金嬉老事件
1968年から1969年の東大紛争や日大紛争
1969年7月20日から21日のアポロ11号の月面着陸
1970年3月31日のよど号ハイジャック事件
1970年3月15日から9月13日の大阪万博
1970年11月25日の三島由紀夫切腹事件
その後の連合赤軍の活動とクライマックスたる
1972年2月19日から28日のあさま山荘事件までは
完全に連続した日本劇場での一連の出し物のように
子どもたちには感じられていたのだ
三島由紀夫という人は
どうみても
サービス精神旺盛な
茶目っ気たっぷり
かつ
いたずら精神に富んだ人だなあ
というのは
感じざるを得なかった
おっと
忘れてはいけない
この時期の最大の出来事は
なんといっても
えんえんと続いていたベトナム戦争だった
1970年までに
民間人を含めてベトナム側は300万人以上死亡し
米軍兵士は5万8220人死亡し
カンボジア人は27万人から31万人が死亡し
ラオス人は2万から6万人が死亡している
アメリカは大平洋戦争で使った弾薬の2.4倍をベトナムで使い
7200万リットルの枯葉剤を南部の70万ha に撒いた
少なくとも1975年までは戦争は続き
毎日毎日戦火のニュースが新聞やテレビで報じられ
ベトナムと比べれば
日本国内のごたごたなど
なんでもないように見えたものだった
しかも当時は
戦争の悲惨を伝える露骨な死体写真や虐殺写真や処刑写真などは
当たり前のように新聞や雑誌の誌面を飾っていた
三島由紀夫の生首写真が不鮮明で
なんだかはっきりしないのを見てがっかりしたのも
ベトナム戦争のたくさんの報道写真に
あまりといえばあまりに負けていたためだった
三島由紀夫という人は
ひょっとして
ベトナム戦争の巨大さとニュースバリューに負けまい
としたのではないか?
などと
思わないでもないのだ
でも
あんな冴えない生首写真で幕切れとなるのなら
開高健や日野啓三のように
彼もじかにベトナムの戦場に取材に行って
他人の生首をネタにして
高見順の『いやな感じ』を超える戦争ものを書いたらよかったのに
などと思うが
あたまデッカチ過ぎ
こころデッカチ過ぎる彼には
やはり
ムリな相談だったかもしれない