勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
于武陵 「勧酒」
4月8日の夜から9日にかけては
風雨強まり
文字通りの嵐となって
唐代の詩人于武陵の「勧酒」の最後の二行を
井伏鱒二が訳した
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
などという詩句も思い浮かんだが
いまはむかし
青春期のロマンチックな若者御用達の
ヘルマン・ヘッセの『春の嵐』なども思い出されたり
もちろん『車輪の下』も蘇り
カロッサの『美しき惑いの年』や
テオドール・シュトルムの『みずうみ』や
『大学時代』や『広場のほとり』なども思い出され
さらにはゴットフリート・ケラーの『緑のハインリヒ』や
日常的なものの中の偉大さを静かに描いて
ニーチェやマンやハイデガーに賞讃されていた
シュティフターの作風なども蘇ってきて
つかのま
ニッポンの令和6年なるものも
その春の桜も
頭からはサッと消え去ってしまっていた
だいたい
桜の咲く頃には
むかしから
天候は悪くなるものと決まっていて
花曇りになったり
寒の戻りとなったり
風雨に花々がいたぶられたりするもので
それを
昨今の20代30代の“子どもら”が
知ったかぶりに
せっかくの桜が悪天候に見舞われてついていない
などと報道していたりするのを聞くと
こんな些細なところでも
文化の断絶が無数に起こっているのか
と嘆かわしくなる
まさか
永井荷風あたりをまったく読んでおらずに
シャカイジンなどというものになったつもりでいるのではないか?
ニッポンジンであるつもりでいるのではないか?
などと
そら恐ろしくなる
荷風先生など
『日和下駄』のはじめのほうで
ちゃんと
こう書いておられるではないか?
変りやすいは男心に秋の空、
荷風先生のいいところは
ふいの天気の崩れも
人間界の詩情や恋情にそのまま直結するものとして
しかと位置づけ
思念の中の
近未来の物語的発展へと
つなげて行くところ
尤もこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出
もちろん
夜陰にまぎれ
「しっぽり何処ぞで濡れの場を演ずる」
若者たちも絶えない令和であれば
荷風先生の詩情も
令和ニッポンに
絶えてしまうものでもあるまい
どうせ
どうジタバタしようが
生老病死の乱流のうちに消えていく
つかのまの空蝉であってみれば
時代も政事もかえりみずに
『愛のコリーダ』していく根源的な反逆児たちに
ひとときの
よろこびよ
あれ
と願いたい
ボードレールふうに言えば
わが子、わが妹
夢に見よ
かの国に行き
ふたりして住む
ここちよさ
のどかに愛し
愛して死なむ
きみにさも似し
かの国に*
わたしはつねにこちら側に付く
*ボードレール『旅へのいざない』の鈴木信太郎訳を、
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