2024年6月28日金曜日

ベアトリーチェ・チェンチ

 

 

ふと

ベアトリーチェ・チェンチのことを

思い出した

 

ネット社会も当たり前になり

そこにスマホやタブレットが普及し切った現代

ベアトリーチェ・チェンチを調べると

グイド・レーニが十六世紀に描いた肖像画がいっぱい出てくる

 

左向きにふり返ったところを描いた絵は

のちにフェルメールが『真珠の耳飾りの女』で利用した構図で

これはどう見ても

フェルメールが借用したものと推察せざるを得ない

 

この数百年

ベアトリーチェ・チェンチは美人だとの世評が高いが

美人というよりは

愛くるしさの残る娘というべきで

かわいい子

と言っておくのが妥当なところだろう

 

父のフランチェスコ・チェンチは

実の娘のこの愛くるしさに狂わされたのだろうか?

14歳になったベアトリーチェを監禁し犯した

 

ベアトリーチェは復讐を決意し

母親と兄ジアコモを味方につけて

阿片を飲ませて眠らせた父を執事オランピオに殺害させた

父フランチェスコの目と首には大きな剣が突き刺さっていたという

ベアトリーチェと母は剣を抜くと

血みどろの死体をシーツで包み

庭のニワトコの木々の上に投げ捨てた

告発から逮捕に到り

サン・タンジェロ牢獄やサヴェッラ牢獄で

ベアトリーチェはさまざまな過酷な拷問を受けたが

髪の毛で吊されたり

逆さ吊りにされたりしても

顔色ひとつ変えずに堪えたという

 

法王クレメンス八世は同情的だったそうだが

当時のイタリアでは近親者の殺害が増えていたため

ベアトリーチェへの極刑は避けがたくなった

 

ベアトリーチェの断頭刑は

ローマのサン・タンジェロ橋前の広場で行なわれた

 

公開処刑にはたくさんの見物人が詰めかけ

「美しき親殺し」と呼ばれたベアトリーチェの首が飛ぶのが

大勢の目によって凝視された

現代ならインスタ映えの恰好の対象だっただろう

SNSで動画は一瞬に世界中に広がったに違いない

美少女の首が飛ぶのを撮影するのは不謹慎極まりないものの

世界にまたとない美少女の断頭なのだから

これは特別扱いせざるを得ないとイーロン・マスクも認めるだろう

そうしてしばらくしてからこの動画に禁止措置をかける

用意のいい人々はスクショだの魚拓だのを取って

後世のための映像資料としてくれることだろう

 

この時のベアトリーチェの首を刎ねた道具は「斧」と呼ばれ

処刑される者が板の台の上に馬乗りに跨がるものだったらしい

この処刑場面については

イタリア狂いのスタンダール(Stendhal)

短編集『イタリア年代記(Chroniques italiennes)』の中の

『チェンチ一族(Les Cenci)』で書いている

むかし学生時代に卒読した訳本はとうになくしてしまっているので

手元にあるプレイヤッド版から

そのあたりを即興で訳してみると

 

―ー縛りなさい、罰せられなければならぬこの体を。そして、魂を解き放ってちょうだい。不死と永遠の栄光へと到るはずだから!

 そうして彼女は立ち上がり、祈り、履いていたミュールを階段の下に残すと、断頭台に上り、板の上にささっと脚を絡め、首を斧の下に差し出した。みずから最適な姿勢をとったので、執行人に触れられないで済んだ。手ばやい動作だったので、タフタ織りのベールが彼女から引き離される時にも、彼女は群衆に肩や胸を見られないで済んだ。群衆に混乱が生じたため、彼女の体は、長いこと、このままお預けの状態になった。この間、彼女は大きな声で、イエス・キリストの名や聖母の名を唱えていた。最期の時には、体が大きく跳ね上がった。

 

ベアトリーチェが「斧」の下に首を差し出すところで

一応「斧」と訳しはしたものの

ここはスタンダール自身がイタリア語でmannajaと記してい

フランス語で「斧」と言ってしまっては

当時のイタリアでの処刑の雰囲気が損われると思ったのか

それともやはり特殊な断頭台であることを表現しようとしたのか

現代のイタリア語ならmannaia(マンナーイヤ)なのだが

かつては「i」のかわりに「j」を用いたのか

現代でもそういう綴りがあるのか

スタンダールが誤って綴ったのか

そのあたりはわからない

 

ローマのサン・タンジェロ橋前の広場で断頭された時

この可憐な近親相姦の被害者

ベアトリーチェ・チェンチは16歳だった

 

彼女のことなどこれっぽっちも知らずに

夏の真っさかり

ランチで食べ過ぎたパスタと

赤ワインの飲み過ぎで

暑いローマの午後を

ふらふらしながら歩いて

せっかくのサン・タンジェロ橋前の広場も

ただの愚かなお上りさんとして通過していった16歳だった自分を

今になると

恥ずかしく思う

 

 




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