人はあゝも言い
こうも言う
どうとでも言う
なんとでも言える
どちら向きにも理屈は作れる
おなじ原理を使って
相反する理屈を組み立てる思考実験もできる
いくらでも
何度でも
精緻に複雑に
それを叡智だの
文化だの
業績だのと
褒め称える慣習まである
そんな慣習にコバンザメして
金を稼ぐ輩も
いつも
いまでも
いつまでも
いっぱい
まるで議論などというものが価値あるものかのように
さんざん時間を費やしたのちに
そうして結局
じぶんたちはなにがしたいんだ
なにがしたかったんだ
という
ふり出しに戻る
自由がほしかったんだろう?
平等がほしかったんだろう?
平和がほしかったんだろう?
世界中を旅したかった?
他人に勝ちたかったんだろう?
月にも火星にも行きたかった?
だが
なんのために?と尋ねると
だれも答えられない
ほしかったもの
ほしがるべきだと言われてきたものは
たいてい
なくてもよかったか
だいたいの程度
あったりなかったりすれば
よかったもの
どんな場所でも
どんな境遇でも
一見すっかりなくなってしまったかに見えても
完全に失われることなどありえないもの
どうせ死ぬのに
どうせ衰弱して
必死に掻き集めたものも
力の失せた腕では使えなくなるのに
肉の落ち切った足腰では
モノのところまで歩いて行くこともできなくなるのに
モノを認知さえできなくなるのに
…などと正論をまっ先に言えば
うしろ向きだとか
さびしいとか
虚無的だとか
そんなふうに言って
はかないお祭りを続けようとする人ばかりの
シナイ山の下の
あいもかわらぬ偶像崇拝の
人びと
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