2021年12月10日金曜日

知へのあきらめがどこかの時点で

 

 

時間と空間のあわさった中で

あれも知りたい

これも経験したいと

駆けずりまわったり

じっと座り込んで

あれこれの本のページを繰ったり

数式を弄んだりしながら

ぼくらは望んだ

大きな

広い

緻密な

相互に有機的に連関しあった

果てしなく成長し

蓄積され続ける

すばらしい知のありようを

 

しかし

あらゆる経験が

表象として思い描ける記憶となったり

からだに染み込んで

癖のような記憶になったりしていくうち

そうした記憶の

情報としての物量には

個人で保持したり使いまわせる限界があると

どうしても気づくことになる

 

かといって

外部にシステムを作って

そこに記憶情報を保存してみたり

組織や社会に移して稼働させようとしてみても

結局はすぐに

力や権力の譲り渡しを招来し

個であるこちら側が支配されることになる

管理主義や全体主義に行き着いてしまう

生活に役立つものとしての知は

どうしても個人のドライブできるかたちでないと

知と呼びうるものではなくなってしまう

 

そうなると

知へのあきらめが

どこかの時点で必要になってくる

ものを多く持ちすぎるひとが

つねにものをよく使えなくなっていくように

道具としての

情報としての知は

ある程度以上は持たない必要が出てくる

ある量以上はもう求めない必要が出てくる

限られた知は

用いかた次第ですぐに膨らみ

必要に応じて何倍にも増えるが

知が多すぎるようになると

意識はもう索引も入口も付けられなくなり

やたらに物量の多すぎるだけの納屋に

こころも頭もなってしまう





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