2022年10月10日月曜日

小さき乱


 

 

花毎に黒蝶何か告げてをり薔薇園に小さき乱おこるべし

   富小路禎子

 

 

 


 

雨が午後から降り続いているが

ときどき

洩らすように

秋の雨は

わたしは嫌いではない

 

しかし

雨は嫌なものだという見方を

幼児から

わたしはさんざん染み込まされた

 

母から染み込ませられたものだった

幼児から母は

わたしには

不愉快このうえない存在だった

父がいない日中に父を罵倒し

あれは人間のクズだ

あんな男になってはいけない

父方の家も賤しい人たちの集まりだと

子どものわたしに言い続けた

 

わたしが本気でものを書けば

自然主義もいいところの私小説になりかねない

母恋物が世間では持てはやされるニッポン風土で

嫌母物を創設してしまうほかなくなるだろうが

そんなものはこの歪んだ統一教会ニッポンでは受け入れられまい

そのためわたしは

これといって

書く必要のないものばかり

嫌母物以外なら

なんでも書き散らしてきたが

そろそろ

自然主義の私小説を

書いても

いいかもしれない

 

ノーベル賞を授与されたアニー・エルノーは

驚くばかりの冷酷さで

自分の母や父を描き殺してきた

彼女のフランス語は鋭利なメスのようで美しいが

彼女の作品を原文でほとんど全部読んだ頃

わたしも自分の両親の生体解剖を

そろそろすべし

すべし

と励まされる思いを

持ったものだった

 

父方の家は

もちろん「駿河」という名字だが

そこへ訪ねに行く時には

電車の中や

バスの中で

「駿河の家は賤しい人ばかりだから親しくするんじゃないよ」

とくり返しくり返し

諄々と

説かれる

幼い子どもに

最も言ってはいけない危険な呪文を

運命と生活の不満に苛まれた若い女は

哀れにも

くり返してしまった

 

母の家は

会社経営者だった祖父の力で裕福な時代があり

田端に300坪の邸宅を構えていた

その時に培った

お金持ちのお嬢様のアイデンティティーを

母は一生持ち続けて

他人を見下して生き続けた

母方の祖父は共同経営者の自殺で莫大な借金を背負わされ

お金持ちのお嬢様のアイデンティティーは崩壊し

階級的に下の人間である父との結婚に走った

そのあたりには

複雑な心理の綾や生活条件のもつれもあり

単純化し過ぎないよう

数十年かけて

わたしはねちねちと情報収集し

執拗に分析し続けてきている

 

ともあれ

子守歌のように

幼い無意識へと吹き込まれてきた

「駿河の家は賤しい人ばかりだから」

という呪文は

年を経るごとに

わたしの内奥で

恐るべき魔を成長させていくことになる

というのも

母がなんと言おうとわたしは「駿河」なのであり

お金持ちの時代の母方の家の末裔では

あり得ないのであり

呪文の一言たりとも聞き逃さない

わたしの中の「駿河」は

いつか

複雑に拗くれた報復を行なおうと

無意識と意識と記憶と意志と衝動と感情と思考癖との坩堝の中で

形容しようもない怪奇な煮詰まりと

なっていった

 

わたしの生まれ落ちた家族を

何代も遡って

また周囲のあらゆる人間を巻き込んで

破壊し尽くす私小説は

しかし

まだ

日本語という名のタイムラインの中に

連載開始

とはならない

それ以前に書かねばならないものが多すぎて

いつそれを

存分に書き上げる時がくるかは

わからない

しかし

その時は来るだろうと思う

五臓六腑の中に滞留した汚物を吐き出すように

書き上げ

すっかり干からびた体になって

火葬しやすくなったところで

死にたい

まだまだそこまでは

行き着けそうに

ない

他のテーマについての汚物吐きのほうが

重要で

先に終えるべきで

まだまだ

わたしの家庭周辺のつましい汚物吐きまでは

行き着けない

 

「本当のことを言おうか」

と「鳥羽」で谷川俊太郎は書いたが

本当のことを言うためには

気の遠くなるような準備をし

言説や記述の土台や道路建設やインフラ整備をしないと

いけない

「本当のこと」は

ひとつの複雑で多層的な構造物であり

ひとつの時代であり

世界であり

システムであり

曼荼羅だからだ

 

「本当のことを言おうか」

書こうとした例として

わたしはいつも

カフカの『城』や『審判』を思い浮かべる

あるいは

ドストエフスキーのあれらの長い著作の数々を

あるいはまた

プルーストの『失われた時を求めて』を

あるいはまた

司馬遷の『史記』を

あのぐらい

多量の

言語と時間と労力と書き手の命を費やして

ようやく

「本当のこと」の片鱗が

言えるか

どうか

だろうと

思う

 

同じような言い方では

「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろう」

と吉本隆明は

『廃人の歌』で言ったし

大江健三郎は

谷川俊太郎の言葉を引用しながら

『万延元年のフットボール』でこう書いた

 

「それからかれは(…)『本当のことを言おうか』 といった。
『これは若い詩人の書いた一節なんだよ、

おれはあの頃それをつねづね口癖にしていたんだ。

おれは、一人の人間が、それをいってしまうと、

他人に殺されるか、自殺するか、

気が狂って見るに耐えない反・人間的な怪物になってしまうか、

いずれかを選ぶしかない、

絶対的に本当のことを考えてみていた。

その本当のことは、いったん口に出してしまうと、

懐に取り返し不能の信管を作動させた爆裂弾を抱えたことになるような、

そうした本当のことなんだよ。

蜜はそういう本当のことを他人に話す勇気が、

なまみの人間によって持たれうると思うかね』

 

けれども

長い歳月を経てきてみると

吉本隆明の書き付けは

べつに

全世界を凍らせはしなかったし

大江健三郎が谷川俊太郎を引用したところで

懐に抱えたつもりだった

取り返し不能の信管を作動させた爆裂弾は

べつに

爆発などしなかったのが

もう

歴然としている

それどころか

もう

だれも

吉本隆明も

大江健三郎も読まないのだ

開きさえしないのだ

 

この何十年

あまりに多くの

文学とか

文芸とか

思想とか

詩とか

いろいろに呼ばれた大言壮語を見続けてきた

結果として

書かれるべき言語は

大言壮語しない

「大」説しない

ぺらぺらした草紙のような

せいぜいが戯作のような

落とし紙にされるような

あくまで「小」説に止まる

音域のせまい

書き止め

でこそ

あるべきではないか

思われたのだった

 

小さき乱

程度で

いいではないか

思われたのだった

 

 

花毎に黒蝶何か告げてをり薔薇園に小さき乱おこるべし

富小路禎子






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