オーストリアでは人間は男爵からはじまる。
メッテルニヒ
仕事から帰った妻が
近頃は
日本にシャンパンが入らなくなっているらしい
と言った
―インチキコロナ騒ぎの余波で?
―それともクソナチ・ウクライナのせいで?
そうでなく
中国あたりが
買い占めているらしい
というのだが
すでに2倍の価格になっていて
これから
もっと上がるという
ドンペリなど
五万円だったのがもう十万
ホストクラブなど
けっこう大変なようだ
まあ
ああいうところは
客からとれば
いいだけの世界だろうし
いままで五十万だった酒が
これからは百万になっちゃってね
と言われても
平気で払う客ばかりだろうが
出されれば飲むが
そもそも作る過程で多量の砂糖が入っている
シャンパンに
さほど興味はないので
わたしには
どうでもいい話では
ある
そこから
話は
高価な飲み食いと
金持ちのバカどものことに移る
いま
日本の和食はバブルが続いていて
平気で七万だの
十万だのする
酒を付ければ十五万や
二十万は
ひと晩で超える
最良の素材で
手間暇かけて作るとなれば
もちろん
数千円で済むわけはなく
数万円はする
しかし
それにしても
七万だの
十万だのは
高すぎる
なのに
高級和食料理店は
どこも
客が絶えない
円安だの
物価高だの
ひょっとすると
燃料ばかりか
食糧危機が来るかも
などと言われながらも
七万でも
十万でも
平気で払って帰る客が
いっぱいいる
いまの日本なのだ
金持ちたちは
実際
たくさんいるし
コロナ騒ぎで儲けた連中が
また
わんさかと増えた
そういう連中が
高いフレンチに飽きると
今夜は和食でも
となる
ちょっと
前
わたしには
知識人っぽいのだの
文学だの
芸術芸能だのの知りあいが多かったが
さほど裕福でない連中なので
彼らは安い居酒屋あたりで飲みながら
世の金持ちどもの
美意識のなさや
ものの知らなさをあげつらって
批判して
世の中はどんどんレベルが下がる
などとしゃべるのを
つねとしていた
しかし
飲んだり食ったりという領域では
食の哲学も持たなければ
ろくな舌も持ちあわせないのに
金だけはあるからといって
バカ高いものを
毎日
飲み食いしている金持ち連中のほうが
残念ながら
飲食には通じていく
五官から入る情報というのは
実物や
高価なものに
どれだけ本当に触れているかで
決定的な差が
ついていってしまう
あいつら
金ばかりあるもんだから
高いものばかり食ったり飲んだりするが
ものの味わいってものなど
わかるわけがない…
などと
いくら審美判定力や
ものの価値のについての批判力で優越ぶろうとも
金のない文学屋や
芸術好きは
端から相手にもならない
金持ちどもは
確かにものも書かないし
食の批評をしようなどとも思わないから
彼らの経験や
味覚についての判断は
他人にも世間にも
なかなか言葉となって洩れてこないが
彼らと同じレベルのものを
ろくに食べてもいない連中が
いっぱし知ったふうなことを書いたのを
瞥見したりしたら
この人ホントに
いろいろ食べてるのかな?と
すぐ
見抜かれてしまう
飲み食いだけではない
泊るホテルや
移動の際の乗り物の席や
贈り贈られる花束の質や数量
その他の贈答品の価格まで
ぜんぶが
経験を堆積し続けていくわけで
それら
ひとつひとつが
いちいち高価なもので出来上がっている
バカな金持ちどもの日々というのは
ちょっと真剣に想像してみればすぐにわかるが
心底おそるべきものである
美だの
詩歌だの
芸能だのの通を気取らない
バカな金持ちどもの無言の品評力にこそ
つねづね
心を配るべきで
物的経験の乏しい
貧しい半可通や
知ったかぶり知識人など
結局は
相手にする必要もない
たった一冊
『山猫』しか書かずとも
ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサは
正真正銘の公爵だったし
それを映画化した
ルキノ・ヴィスコンティも
正真正銘の伯爵だった
誰でも
水を飲むし
ランチを簡単に済ませたりして
日々を送り
歳を取っていくが
水を飲むのに
ランペドゥーサやヴィスコンティが
なにげなく使っていたグラスは
東京のそこそこのホテルのグラスでなどもちろんないし
ランチを載せていた皿も
その上で使われたフォークも
ナイフも
東京のどこぞの社員食堂のそれなどでは
もちろん
ない
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