母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
西条八十
たくさん本を読んで
そうして
死んでいったひとたちの霊に
問いたい
読書の成果は
どうなりましたか?
いっぱい読んだ
あれらの内容
みんな
覚えていますか?
死後の世界で
なにか
役に立ちましたか?
あんなに本を読んだおかげで
どうにかなったり
したんでしょうか?
そちらで?
ふと
西条八十の「ぼくの帽子」
思い出したので
あとは
西条八十さんに
任せます
「歌を忘れたカナリヤ」などの
童謡作者だっただけでなく
ランボー研究者で
フランス留学時には
現実にポール・ヴァレリーと
親しくつき合った
早大文学部仏文科教授の
西条八十さん
ぼくの帽子
母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷(うすい)から霧積(きりづみ)へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあのときずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、
紺の脚絆(きゃはん)に手甲(てこう)をした。
そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。
けれど、とうとう駄目だった、
なにしろ深い谷で、それに草が
背たけぐらい伸びていたんですもの。
母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。
母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、
あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、
昔、つやつや光った、あの伊太利麦(イタリーむぎ)の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y.S という頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく
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