本を読むのは
どんなものでも簡単ではなく
むしろ困難の極みの労働であると思うのだが
たとえば旧約聖書の
あの創世記
日本語だと
だれもが共同訳を読むことになり
明解な気持ちのいい訳だが
いつも引っかかる
「初めに、神は天と地を創造された」と
冒頭で言っているのに
創造の二日目のところで
「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた」
と言う
「天」と「大空」は違うものなのか?
ととまどい
引っかかってしまい
第1ページ目で
ずっと想像をくり返しながら
確認しようとしてしまう
創造の二日目のところで言っている
「大空の下と大空の上に水を分けさせられた」
というのが
また
わかりづらい
どうして「水」が
これほど特権的に語られるほどに
しっかりと存在してしまっているのか
そこにも引っかかる
冒頭ですでに
「初めに、神は天と地を創造された。
地は混沌であって、
闇が深淵の面にあり、
神の霊が水の面を動いていた」
と語られているので
とにかくも「水」は特権的な存在である
神が意識的に「天と地」だけを「創造」した段階で
なぜだか
創造もしていないのに
「水」も出現してしまっているのだ
まあ
いいだろう
なんだかわからないが
神の創造に与らなくても
「水」はもれなく
セットで「地」に付いてきてしまうものらしい
なぁに
「地」には
ふつう
「水」は付きものじゃないか
なんて言われれば
そりゃそうだ
となるが
ちょっと待ってくれよ
いまの自然界のことを言っているんじゃなくて
創世の時のことなんだよ
そう
文句も
言いたくなる
創造の二日目では
こう
書かれている
神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。
そのようになった。
神は大空を天と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。第二の日である。
おいおい
ちょっと待ってくれ
「水」の中に「大空」を造った?
それで
「大空の下と大空の上に水を分け」た?
そうして
その「大空」を「天」と呼ぶことにした?
あれ?
創世記の第一文で
すでに「天地」は創造されているんだから
二日目で造った「大空」を
「天」と呼ぶのは
矛盾しているよね?
それに
「大空の下と大空の上に水を分け」たのだとすれば
「大空」なるものは
膜みたいなものになるの?
こういうわけで
ちゃんと読もうとすると
とんでもない迷路へと連れていかれてしまうのが
旧約聖書の創世記なのだ
いい加減に読んで
だいたいのところを想像して
ずんずんお話を追っていく雑なひとでないと
とてもではないが
納得できない概念構造
ここで
フランシスコ会聖書研究所の
『原文校訂による口語訳聖書』を開くと
「大空」については氷解する
なんと
ヘブライ語を直訳すると
「大空」と訳される言葉の意味は
「打ち延ばされた(金属)板」であって
古代セム人は
「大空」を
「上に水を蓄えた堅い天井」と考えていて
そこにできた穴から大雨が降る
と考えていた
との注釈が付いている
「打ち延ばされた(金属)板」
というイメージで「大空」を捉えるのは
体感的にわかる
晴れあがった真夏の青空など
まぶしくて
「打ち延ばされた(金属)板」
という感じではないか
もっとも
「打ち延ばされた(金属)板」のような「大空」の下にも
すぐに「水」がある
という考え方は
やはり
謎のままに留まる
それに
「打ち延ばされた(金属)板」
として「大空」を捉え
表現したとすれば
旧約聖書の創世記を支える発想は
「板」や「(金属)板」が
人類によって作られるようになった後に
作られたものということになり
大して古いものではない
とわかってしまう
いくら紀元前だといっても
「板」や「(金属)板」というものを
人類が手中にしてからのことに過ぎない
ことほどさように
ことほどさように
本を読むのは
どんなものでも簡単ではなく
むしろ困難の極みの労働であって
旧約聖書の創世記なんぞには
とにかく
惑わされ続ける
そういえば
神の天地創造は
けっこう
容易に
ひょいひょい
と
なされたようである
フランシスコ会聖書研究所の
『原文校訂による口語訳聖書』には
これについても注釈があって
1節の「創造する」の原語は「バラ」であり
このヘブライ語は
神の場合にだけ用いられ
「労することなく造る」
すなわち
「言葉または意志によって造る」
という意味だという