わたしは仏教徒ではないが
地上や物質界がなぜこのようにあるのか
どうして人界には悲惨と苦と醜と悪が耐えないのか
非物質界の霊界や神界はどう在るのか
などを問い続けているので
一定の認識を示した仏陀の言葉には
たとえ歪められ伝えられているにせよ
つよく関心を持たずにおれない
仏陀の認識を構成する最も基本的な言葉は
『ダンマパダ(真理の言葉)』の三法印だろう
三法印とは三つの命題ということであり
仏陀はこれらを基礎として彼の認識を作っていく
かたち作られたすべてのものは無常である
かたち作られたすべてのものは苦しみである
すべてのものはわたし(のもの)ではない
これらをこうして見直すと
主に表現のしかたの不完全さの点で
わたしはやはり仏陀に頷くことはできない
かたち作られたすべてのものが無常である
との認識はかなり正しく思われるが
「かたち作られた」ものについて
もう少し正確に述べておいてほしかった
かたち作られないものについてはどうであるか
そこのところも表現しておいてほしかった
「かたち作られた」という限定付きではあるが
すべてのものが無常であるというのなら
無常というものは不変であることになる
不変な法則としての無常が
例外的に不変でなくなる境域はないのか?
これも明解に説いておいてほしかった
もし例外境域がありうるとすれば
仏陀の認識は大きく瓦解することになり
われわれはまったく異なった思考で
世界や非世界の法則の探究に出なければならない
そしてまた
かたち作られたすべてのものは
はたして
苦しみであろうか?
わたしは幼少時から
こういう仏陀の説き方に
彼の表現のしかたの癖や偏りを嗅ぎ
非常に不愉快に感じた
「苦しみ」という言葉を使うのは甘えであり
無用の偏光フィルターをかけて
真理を求める者たちを惑わす言表行為である
かたち作られたすべてのものは
苦しみであり
苦しみでない
という程度には
表現の工夫を
仏陀はすべきだっただろう
さらに言えば
かたち作られたすべてのものは
苦しみという観念の機能する境域には存在していない
と言っておくべきだっただろう
すべてのものはわたし(のもの)ではない
という言表は
『ダンマパダ(真理の言葉)』の三法印のなかでは
いちばん正確に見える
とはいえ
不正確なところが混じり入っており
この言表に従えば
「ではない」というものも「わたし」ではないことになって
この言表自体が崩壊する
仏陀は「すべてのもの」に混入する論理要素を
解決しないまま
この言表を行なってしまったのだ
このように仏陀の三法印に向かいあえば
仏陀の説いたところの価値は滅び去り
わたしは仏陀の残した言説から解放されることになる
いにしえの真摯な探求者であったとはいえ
パスカルがデカルトを論評したように
仏陀は「無益にして不正確」と断じるほかない
仏陀の残した言葉をなおも救うためには
真理探究に徹した詩人として彼を見ることだろう
詩歌においては論理性や認識において
100パーセントの正確さが求められはしない
詩歌は情報や概念や表象を取り込むことで
その詩歌内での独自の正確さを創造する
そうした独自の正確さを通過することで
そこから多方面に広がる認識の海へと
読む者は旅立ち続けるのである
いわゆる四苦八苦を説いた言葉の
パーリ語の『律蔵』大品Ⅰ・6・19などには
詩人としての仏陀の思念のリズムが漲っている
生まれるのは苦しい
老いるのは苦しい
病気になるのは苦しい
死ぬのは苦しい
愛さない者と会うのは苦しい
愛する者と別れるのは苦しい
なんであれほしいものが得られないのは苦しい
まとめて言おう
五種類の執着の素は苦しみなのだ
「愛さない者と会うのは苦しい」
という言葉を入れているところを読むと
仏陀、かわいい!
などと
うっかり
思ってしまう
生老病死と次元の異なる
「愛さない者と会う」苦しみを
このひと
なぜ入れてしまうのだろう?
仏陀の謎である
というか
やっぱり
このひと
ちょっと
考えかた
ヘン?
「愛さない者と会う」時に
泰然自若として動じない心でいられなかった
ひとの世の交わりをひどくつらがった
よわい
よわい
よわい
ひとが
ここに
いる
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