むかしから
世界を見わたせば
だれもが四苦八苦に苛まれている
苛まれたまま
たいていは生を終える
現代の世の中を見ても
どこもかしこも
ひとびとのそうした生死のさまで
溢れている
この四苦八苦からの解放を
仏陀は目指したが
ひとが四苦八苦に絡めとられる最大の理由は
ものへの妄執にある
と仏陀は見た
人間のみならず動物には
眼耳鼻舌身の五つの感覚器官があり
これを仏教では五根と呼ぶ
「根」はサンスクリット語ではindriyaといい
「能力」を意味する
これらの能力は
生きる物質世界の情報を感受し
認識するためのものだが
ここから得られた刺激に快楽を得て
特定の快楽に執着しはじめ
バランスの取れた「五根」の使用や
世界認識や世界内行動のしかたが歪み出す
「五根」という能力の
こうした不適切な快楽的使用への傾斜を
妄執とよぶ
「五根」という能力と
それが発揮される装置としての感官を
世界情報の適切な認識のための
本来の機能に限って使用するようにせよという
当然であるとともに厳格な
操縦者の心得の確認指南者が仏陀であった
仏陀本人が語ったかどうか
それはわからないが
紀元前4世紀には存在していたという
『大般涅槃経(だいはつねはんきょう)』には
ずいぶんとこってりした表現による
おもしろい妄執の例示がなされている
1 返済しきってない負債のような妄執
2 悪鬼女のような妄執
3 美しい花の茎に巣くっている毒蛇のような妄執
4 気に入らない食べ物を卑しくむさぼり食らうような妄執
5 淫らな女のような妄執
6 つる草のマルーカのような妄執
7 傷にできたかさ肉のような妄執
8 台風のような妄執
9 彗星のような妄執
具体的なイメージで
妄執というものの手ざわりを
しっかりと掴もうとしていた初期仏教の
この手づくり感が楽しいし
すばらしい
はじめに
返済しきっていない負債のようなもの
として
妄執を捉えたところも
興味深い
遠い遠い過去世に
われわれは
巨額の借金をしたまま
払わずに
逃げ続けてきたのだろうか?
そんなことを思わせ
妄執というものの原理を
ちょっと垣間見るところまで
導いてくれる
負債と妄執の共通点は
じぶんがしっかりと返済処理の意志を持って
進んで動き出さねば
清算はできないという点にある
妄執をしっかりと認識し
狙いをさだめて
処理しようとしないかぎり
ボーッと待っていても
いつまでも解決はできないと
仏陀だけでなく
初期仏教のひとびとは
明確に意識していたものと見える
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