2024年7月30日火曜日

サ・イラ(Ça ira !)


 

Ah ! ça ira, ça ira, ça ira,
Les aristocrates à la lanterne ;
Ah ! ça ira, ça ira, ça ira,
Les aristocrates on les pendra 

Ça ira !

 

 

 


パリ・オリンピックの開会式では

斬首されたマリー・アントワネットを思わせる女性が

じぶんの首を持って

歌を歌っていた

https://www.youtube.com/watch?v=v77LkdSnXtI

 

演奏はヘヴィメタルバンド「ゴジラ(Gojira)」で

歌っていたのは

スイス生まれのメゾソプラノ

マリーナ・ヴィオッティ(Marina Viotti)だった

哲学と文学を専攻し

ジャズやゴスペルやヘヴィメタルに親しんで

オペラも宗教曲もこなす

彼女ならではの挑戦だっただろう

 

祝祭の出し物として見せるには

いささか刺激が強すぎるため

あまりに悪趣味

との批判が

SNSなどでは多く出た

 

象徴的にせよ

いまだに天皇制を維持している日本でいえば

皇后の首を斬首して

首なしの体にそれを持たせて

歌わせている

という光景になる

 

そこまで想像をすぐに走らせない日本人は

もはや

日本人とはいえないだろう

天皇制に賛成でも

反対でも

「象徴」なるもののお遊びを

どこまで儚く続けようとするにせよ

どんな政治思想を持っていようといまいと

そこまですぐに想像するほかないのが

現代日本人の想像力の宿命というものであって

ここのところを無視し

逃げ続けた

戦後世代の日本人の数代たちの愚劣さと卑劣さとおぞましさが

いまの日本のあらゆる政治空気の腐敗ぶりを決定づけた

 

日本のことはともかく

斬首されたマリー・アントワネットを思わせる女性の

首が歌っていたのは

フランス革命の際に流行った歌の

『サ・イラ(Ça ira !)』だった

 

革命を起こす側の歌を

処刑されたマリー・アントワネットの

血のしたたる首に

歌わせるとは!

 

このシーンを見た最初は

ちょっと矛盾を感じたのだが

じつは

マリー・アントワネット自身

この曲をよくチェンバロで弾いた

といわれているので

それならば

彼女が口ずさんでも

とりあえず

そう問題はない

 

マリー・アントワネットが好んで弾いたのは

おそらく

歌詞のついていないベクール(Bécourt)作曲の元曲のほうだっただろう

ベクールはテアトル・ボージョレーのバイオリン奏者で

「ル・カリヨン・ナショナル(Le Carillon national)」という

コントルダンスの曲を作った

人気を博したこの曲を

兵士出身の辻歌手ラドレ(Ladré)がアレンジし

歌詞をつけて

『サ・イラ(Ça ira !)』となった

これが『サ・イラ(Ça ira !)』のオリジナル版である

https://www.youtube.com/watch?v=s75h1db2vwk

 

一般に想像される以上に

好奇心に富み

知的でもあったマリー・アントワネットは

ひょっとしたら

オリジナル版の『サ・イラ(Ça ira !)』もチェンバロで弾き

歌ってみたかもしれない

 

『サ・イラ(Ça ira !)』は

「それはうまくいくだろう」

と言った意味を表わす未来形表現だが

アメリカ独立宣言起草者のベンジャミン・フランクリンが

フランス王国からの資金調達に奔走すべく

ジェファーソンらと渡仏した際

今後のアメリカの独立などはうまく行くのかと聞かれるたびに

よくできないフランス語で

「ア、サ・イラ、サ・イラ…(Ah, ça ira, ça ira…)」

(うまく行きますよ、大丈夫ですよ…)

などと答えたので

それが広まってこの歌に繋がっていった

といわれる

 

フランクリンは

フランスだけでなく

ヨーロッパ各国と外交交渉に精を出し

いわば敏腕の外交官やビジネスマンよろしく

各国を騙くらかしつつ資金を必死に掻き集めようとしたわけで

フランス革命の景気づけをすることになる歌が

彼の言動から発生してきたというのは

興味深いことでもあるし

もっともと思えることでもある

フリーメーソンのメンバーだったフランクリンは

当時の知の巨人で名士のヴォルテールを

フリーメーソンに入会させてしまいさえしている

 

フランス革命後期になると

内容的にいっそう粗野で単純で空疎で過激な

サンキュロット版の歌詞が作られ

現代には主にこちらのほうが伝わって

懐古的に歌われる際にも

こちらが歌われる

https://www.youtube.com/watch?v=L9VoRmjxvPs

https://www.youtube.com/watch?v=bzu01gO3pi4

 

オリジナル版にしても

サンキュロット版にしても

斬首後のマリー・アントワネットの首に歌わせるとなると

歌詞の意味の受け取りかたは

なかなか複雑なものとなる

 

ろくにフランス革命に深入りもせずに

とにかく民衆による革命だと理解しようとする

スターリン主義者的な浅薄な連中は

マリー・アントワネットが反革命ででもあったかのように思いたがるが

まずはそこから間違っている

ルイ16世もマリー・アントワネットも

革命を阻止しようとしたのではなく

むしろ然るべき改革を実現させる考えを持っていた

とりわけ

オリジナル版の歌詞は

キリスト教精神でよりよき国家を作ろう

といった方向を持つので

ルイ16世の意志に近い内容を述べている

貴族を敵視した歌詞もあるが

そもそもフランス史において国王と貴族はつねに対立している

フランス革命でも

貴族が税を払わないという特権を廃止しようと王が企てたところか

巨大な組織崩壊へと向かっていった

税を払わない自民党や宗教団体などをもし天皇が追求すれば

自民党や宗教団体は天皇を攻撃するだろうが

それと同じ事態になったのがフランス革命だった

はじめから民衆なるものの出る幕はなかった

 

それにしても

『サ・イラ(Ça ira !)』を

斬首後のマリー・アントワネットの首に歌わせた場合

結果的には

どんな効果が出て来るだろう?

 

オリジナル版には

このような歌詞が見られる

 

ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく

人々はこの日、何度も何度も繰り返す
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
反逆者どもを物ともせず、全ては成功するだろう

 

(……)

 

福音書の教えに従い

立法者によって全ては成し遂げられるだろう
己を高くする者は低くされ
己を低くする者は高くされるだろう
まことのカテキズムがわれらを教え導くだろう
そして恐ろしい狂信は消え去るだろう
法に従順たるように
全てのフランス人は己自身を鍛えるだろう
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく

 

(……)

 

かつてフランス人は沈黙していたが
貴族たちは言う、「われ過てり!」と
聖職者はその富を惜しむ
正義によって、国家はそれを手に入れるだろう
慎重なラファイエットのおかげで
みなは落ち着くだろう

 

ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく

威厳ある議会の光輝により
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
武装した人々は常に自重するだろう
われらは善悪を見分けることができるだろう
市民は善に与するだろう

 

(……)

 

ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく

ラファイエットは言う、「志のある者は来たれ!
愛国心がそれに応えるだろう!」と
銃火も炎も恐れずに
フランス人は常に勝利を得るだろう!

 

これらの歌詞が示すのは

王制が貴族や聖職者の特権を修正して

王国がうまく行くようになる

といった見通しであろう

マリー・アントワネットの首が歌うのには

じつにふさわしい内容といえる

 

このオリジナル版の歌詞が示す「貴族」とは

現代のフランスにおいては

自分たちだけ利益を上げて納税も少ない

特権的な富裕層を表わすはずだ

マリー・アントワネットが象徴する真の国体が

そうした特権階級を掃討するだろう

と歌っていると見てもよい

 

もっと過激で

内容的にいっそう粗野で単純で空疎な

サンキュロット版では

こんな歌詞が見られる

 

ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく

貴族どもを街灯へ!
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを縛り首にしろ!

 

吊るすのでなけりゃ

奴らを壊そう
壊すのでなけりゃ
奴らを燃やそう
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを街灯へ!
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを縛り首にしろ!

 

われらはもはや貴族も聖職者ももたぬ

ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
平等があまねく支配するだろう

オーストリアの奴隷もこれに従うだろう
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
そしてそれらの忌々しき連中は
地獄に落ちるだろう
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを街灯へ!
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを縛り首にしろ!
そして全員を吊るしてやったら
奴らのケツにシャベルを突き刺してやれ

 

縛り首にするのが

国王でも王妃でもなく

「貴族ども」であることに注意しよう

もっとも

サンキュロット版ができる頃には

王も王妃も斬首されてしまっているので

ここで歌われる必要がなくなっているともいえるが

「貴族ども」はいつでも

時代時代の富裕層や特権層を内容とすることができる

融通無碍な器としての表現である

パリ・オリンピックの開会式で

斬首後のマリー・アントワネットの首が

こちらのサンキュロット版を歌ったのだとしても

街灯に吊して縛り首にすべき「貴族ども」は

現代の富裕層や特権層であると解してよい余地が

十二分に残される

 

さて

ここからは

すこし乱暴に飛躍して

「貴族ども」が

現代のフランスやヨーロッパにとって

誰であるか

端的に指摘しておこう

 

生活の糧を干からびさせ

庶民の収入を減らし

食糧生産を低下させる命令を出し続け

庶民の生活を苦しいほうへと

ひたすら向かわせようとする「貴族ども」は

各国政府であり

フランスならばロスチャイルドの稚児マクロンであり

さらにはEUであり

無謀な戦争をひたすら招来したがっているNATOである

 

パリ・オリンピックの開会式における出し物の意味あいは

このように

じつは極めて革命的なものであり

すでに

とうの昔に王政がなくなっている現代において

革命歌『サ・イラ(Ça ira !)』が

あのように

斬首後のマリー・アントワネットの首によって歌われる場合の

「貴族ども」への照準を

もはや

誤りなく

しっかりと定めよ

と演出家は顕示したものと

見るべきである

 

ちなみに

革命歌『サ・イラ(Ça ira !)』は

フランス革命の恐怖政治時代の後でも

1795年から1799年までの総裁政府時代などには

催しの前に斉唱されるのが義務づけられた

1799年から1804年の執政政府時代には

逆に禁じられたというから

革命後のフランス社会をまるごと我がものにしようとした

大全体主義者のナポレオンの本性が

みごと露呈しているといえよう

 

 





2024年7月29日月曜日

Et je vis : c’était un cheval blême.

 

 

 

たしか

アテネ・オリンピックの時だと思う

2004年だったか

 

開会式を

最初から最後まで

ぶっとおしでしっかり見た

中継を日本で見ると

深夜から夜明けまでの時間帯だった

 

これが

あまりにつまらなくて

疲れ切ってしまい

以後

オリンピックの開会式は見ない

二度とつき合わない

と決意した

 

だいたい

どこのオリンピックも

その土地の伝統的なダンスだの何だの

地域観光協会協賛みたいなことを入れ込んでくるし

その国のお国柄をぶち込んできて

小さな万博っぽい催しに持って行く

 

そういうのが嫌いで

つまらなくて

ああ、アホラシ……!

と最初から白け切るタチなので

開会式なるものがつまらなくしか感じられないのは

あたりまえと言えば

あたりまえ

 

なので

慾まみれの汚泥そのものの

穢れ切ったあのトーキョー・オリンピックの開会式も

一切

見なかったし

2024年のパリ・オリンピックの開会式も

まったく見なかった

 

そもそも

リアルタイムで見てる暇なんて

まったく

ないし

 

ところが

情報屋であり工作員でありスパイであり

超陰謀論者であり都市伝説収集家であり無限オカルト探究家であり

現実に神秘家で

DSの上に立つメタDSであるわたくしであるから

全世界のSNSやめぼしいYouTube

ネット内の情報のほぼ全部を網羅している関係上

パリ・オリンピック開会式に関するあれこれのお話は

舞い込んできてしま

それで

事後譚として

こんなこともあんなこともあったのね

今になって楽しんでしまっている仕儀に

相成り候

 

 

ヨハネの黙示録67にある

 

見よ

青白い馬が現れ

乗っている者の名は「死」といい

これに陰府が従っていた

彼らには

地上の四分の一を支配し

剣と飢饉と死をもって

更に地上の野獣で

人を滅ぼす権威が与えられた

 

をそのままイメージ化したような

馬に乗った騎士像を

これから世界に訪れる破滅のイメージの予告として

受けとめるのは

まあ

五島勉のノストラダムス本にハマるごとき

都市伝説大好き系や初級オカルトファンたちの

基本のお作法であるが

あながち

こういったイメージ化をちょっとは真に受けておく必要もあるかもね的な

受け止めの

別のお作法もそうバカにならないのは

2012年のロンドン・オリンピックの開会式で

はっきりと

その後の偽コロナ・パンデミックの予告がなされていたからではある

 

そもそも

近代オリンピックの創設者とかいわれる

クーベルタン男爵やその他の主要メンバーが

みな

フリーメーソンだったことを思い出せば

開会式を使って

近未来に起こる事態の予告をしておくのも

いちおう理にかなってはいる

 

え?

開会式に出てきた馬と騎士は

「青白」くなんかなくて

むしろグレーっぽく見えたり白く見えたりしたけれど?

という

都市伝説系言説にすぐには流されないぞ系の

ちょっと注意深い観察者クンに

いちおう

字義の細かいことに関わるつまらぬぶつぶつ事を言っておくと

あの「青白い馬」は

「ヨハネの黙示録」のギリシャ語のchloros(クロロス、緑)が

英語ならばpale(ペール、青白い)と訳されたわけで

(ちなみに手元にある国際ギデオン会の英訳もそうなっている)

翻訳者によっては

「病的な緑」と訳したり

「白よりもむしろ灰色」と訳されたりしうるもの

 

なので

グレーっぽく見えたり白く見えたり

というのは

可能な色彩使用の範疇に入っていると言える

 

今回の開会式はフランスで催されたものだから

全世界キリスト教会訳(Traduction oecuménique)

フランス語訳でも見ておいてみると

 

Et je vis : c’était un cheval blême.

Celui qui le montait,

on le nomme « la mort »

et l’Hadès le suivait.

 

 そして私は見た。それは一頭のblêmeな馬であった。

 それに乗っているのは

 「死」と呼ばれる。

 そして、ハーデース(ギリシャ神話における冥界の神)

 それに従っていた。

 

blêmeというフランス語は

辞書によりいろいろな語義はありうるものの

これも手元にある簡易辞典Le Robert Microによれば

D’une blacheur maladive

すなわち

「病的な白さ」とあるから

いきなり蒼系のイメージに持って行き過ぎるのも

偏向し過ぎといえる

パリ・オリンピックの開会式で使われた

グレーっぽく見えたり白く見えたり

というイメージで

べつにかまわないわけである

 

なので

都市伝説系の牽強付会大絶賛的解釈も

今回のあの馬と騎士については

けっこう行けまっせ!

なのではある

 

ただね

インドからカリフォルニアに宣教に渡った

パラマハンサ・ヨーガナンダ師の

霊的師匠にあたるスワミ・ユクテスワ師などは

キリスト教の聖書には

予言や歴史などとは違う霊的修行の過程が比喩を用いて描かれており

とりわけ『ヨハネの黙示録』は

個人の霊的成長過程が説明されている

と明言していたりするので

旧約聖書も新約聖書も

予言の書として見るというのは

霊的には完全に誤った使用法である

ということになる

 

言葉ではまったく説明不可能な

あまりに多くの層や境域からなる霊的深層の探究や

それらを引き継ぎながらの霊的進化をしていく上では

『ヨハネの黙示録』のような表現を採らざるをえなかった

と考えるのが

霊的修行を行なう者の基本姿勢ではある

 

しかも

初期キリスト教というかたちでの修行者たちに

過酷な弾圧が行なわれていた時代なので

サッと読むような者が容易には読み解けない象徴的表現を駆使して

霊的修行階梯をテキストに潜ませる必要があった

 

霊的修行者にとっては

新約聖書と旧約聖書の間に断絶はなく

そもそも

仏教修行を経てから

パレスチナの地で指導を開始したイエスの波動を伝えるものなので

キリスト教の本質には仏教がぴったりとしみ込んでいる

イエスだけでなく

古代ユダヤの預言者たちが

何度も

地上の王国ではなく天上の王国に富を積め

といったような言葉を吐いているのを忘れるべきではなく

彼らの教えは

地球上の平安や繁栄や富などに向けられたものではない

新旧の聖書を

完全に霊性開発のためのテキストとして読む時にのみ

霊性開発のための指導霊たちは

現世の人間たちに降りてくるだろう

 

さて

パリ・オリンピックの開会式にまつわる

あれこれの贅言は

また

べつの機会に

おしゃべりすることとしよう