本当であること、ただ単に本当であること。
それ以外のものは長くは保たない。
スタンダール 『アンリ・ブリュラールの生涯』
Être vrai, et simplement vrai, il n’y a que cela qui tienne.
Stendhal 《La Vie de Henry Brulard》
大学生の頃
教授たちの中でも年長のひとりから
戦後すぐのエピソードを聞いた
友人たちと
熱海の旅館に一泊した
という
海を見はらせる高台の旅館で
大きな部屋に通された
海にむかって並ぶ大きなガラス窓からの眺めが
気分を開放的にしてくれて
いっしょに来た六人は
畳の上のテーブルに集って一服しながら
しばらく無駄話をし
海や空をぼんやり見ていたという
窓のむこうを
お盆を手に持ちながら
右から左へ歩いて行く女性の姿がふと見え
こちらを向いた女性は
会釈をしながら進んでいき
左手に消えた
旅館の仲居さんと思われ
他の部屋に
お盆に載せたお茶などを持って行くところ
と見えた
そろそろ
温泉に入りに行こうか
ということになり
今さっき仲居さんが通っていった
窓の外の通路を行けば
温泉までは近かったりするのではないか
と誰かが言ったので
それじゃあ
そっちから行こうか
と何人かが窓のほうへ寄ってみた
すると
窓の下は断崖絶壁のようになっていて
通路などなかった
六人とも
部屋に入って以来
窓の近くへは寄ってもみなかったので
わからなかったのだ
それでは
さっき通っていった仲居さんは
あれは
なんなんだ?
ということになったが
六人が六人
みなが
お盆を携えた仲居さんを見たので
気のせいとか
見あやまりとは
誰ひとり言うものはなかった
「世の中には
そういうこともあるんだよ
戦後すぐという
時代のせいとは言えない
だって
空襲で死んだ人とかを
けっこう見たし
戦地で死んだ知りあいや友人もいたけれど
幽霊なんて
一度も出なかったからね」
教授はこう言ったが
これを聞いていた誰だったかが
「平和になって
幽霊もようやく出て来れるようになった
なんて解釈も
できませんかね」
と
うまいことを言った
たしかに
お盆を抱えて
海沿いにスーッと行く幽霊など
なかなか
風情がある
わたしの場合も
ながく親しんだエレーヌが亡くなる一週間ほど前に
似たような経験があった
エレーヌは
病院に入院しているはずだというのに
ある晩わたしが家に帰ると
玄関から奥に見える居間の椅子に座っていて
こちらを見て
ニコニコしていた
あ?
エレーヌ?
と思う間もなく
エレーヌの姿は失せて
もちろん
これは
わたしの見まちがいか
あるいは
思いのなかの彼女の映像が脳裏に重なったか
そんなことだろう
と思った
わたしの場合は
戦後の熱海で六人で体験をした教授と違い
たったひとりでの体験だったので
思いちがいとか
見まちがいとか
意識のブレとか
そんなふうに
片付けられてしまうほかない
当時わたしが住んでいた家は
玄関から入ると
奥の居間にむかって廊下が延びていて
居間のドアを閉めていなければ
左の壁際に置いてあるソファの端や
テーブルにむかって置いてある椅子のひとつが
玄関からでも見えた
エレーヌは
冬のうすいカーキ色の分厚いブルゾンを着て
椅子に座っていて
腕を組んで
こちらを見ていた
まだ10月のなかば過ぎで
極めつけの猛暑だった夏のあとの秋だったこともあって
まったく寒くなく
エレーヌったら
ブルゾンなど着る必要もないのに
と
あとで思った
たったひとりでの体験だったので
こんな光景のすべてが
思いちがいとか
見まちがいとか
意識のブレとか
そんなふうに
片付けられてしまうほかない
あの家からも引っ越してしまって
もう8年になるので
住んでいた家の内部のようすなども
思いちがいとか
見まちがいとか
意識のブレとか
そんなふうに
片付けられてしまうほかないもののたぐいに
もう
入り込んでしまっている
そういえば
エレーヌが着ていると見えた
うすいカーキ色の分厚いブルゾンは
エレーヌの死が近い頃には
もう彼女の手元にはなく
かなり以前に捨ててしまっていたものだった
このことに
これを書いている今になって
気づく
1980年代に
エレーヌが好んで着ていたブルゾンで
それを着た彼女と
わたしは冬のフランスを旅した
ペンタックスの一眼レフで
たくさんフィルム写真を撮っていた頃なので
ブルゾンを着ているエレーヌの写真も
いっぱい撮った
うまく撮れた写真もあった
今でもまだ
たくさん残っている
いずれにしても
だ
エレーヌが死ぬ一週間ほど前
すでに捨ててしまっていたブルゾンなど着て
寒くもない10月の夜
わたしの家の居間に座っていた
あのエレーヌは誰か?
死の迫っていたエレーヌの
生霊でさえない
カーキ色のブルゾンを着ていた
あのエレーヌは
誰か?
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