やってくる一瞬一瞬が
過去のさまざまな一瞬一瞬に
信じがたいほど緊密に結びついていて
さっきもパソコンに向かって文字を打っている刹那
むかし住んでいた世田谷区の池の上の
井の頭線の近くにあった熱帯魚店の前を歩いて行く時の感情が
どっと蘇ってきて
しばらく当時のそのあたりの風景の中に入って
見まわし続けていた
買い物は下北沢まで二十分ほどかけて歩いていき
大丸ピーコックやナチュラルハウスで買った後
ふたたび二十分ほどかけて池の上まで戻ってくるのだが
その途中に熱帯魚店のある道を選ぶこともできた
その道は井の頭線を横断していて
向こう側に行くと文房具屋があったり
毎土曜日の朝に洗濯しに行くコインランドリーがあったり
親切な店主がいる昔ふうの八百屋があったりして
そこの店主は秋になると
ぼくらのために熟した柿を取っておいてくれて
格安の値段で売ってくれた
クリームのようになったやわらかい柿をエレーヌは好んだので
それを聞いてからというもの
店主は近所のお婆さん客かぼくらのために
熟柿は取り置いておいてくれるようになったのだった
エレーヌは店主のことを「おじいさん」と呼んでいた
まだ四十代かせいぜい五十代の人だったので
「おじさん」と呼ぶべきだったのだが
フランス人の彼女には「oji-sann」
「ojii-sann」になってしまう
その人を見たことがなかった頃に
エレーヌから「ojii-sann」
はじめていっしょにその八百屋に行った時は
なあんだ、「oji-sann」じゃないか、と思ったが
帰り路もその後も
なんども「oji-sann」と発音させようとしてみても
どうしても言えず「ojii-sann」になってしまうのだった
もう三十八年前のことだというのに
ついさっきのことのように生きている
永遠現在形の瞬間
きっとぼくが死んでも
いつまでも行き続けているであろう瞬間
いま思いついて記したのだが
いいな
永遠現在形っていうのは
ぼくの言語の中の
重要な時制だ
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