2023年3月31日金曜日

虚像としての“永遠なるもの”を捨てた時こそ

 

 

 

あなたたちにとって牢獄であるものが

私にとっては庭園

ジャラール・ウッディーン・ルーミー

 

 

 

 

お笑い芸人の伊達みきお(サンドイッチマン)が

こんなことを言っていたらしい

 

この間WBCでさ

成田空港に優勝した選手たちが帰国して。

みんなスマホ掲げて

スマホの画面見てんだよ

肉眼で見ろよ

まず

スマホの画面越しで見るなら

テレビでいいじゃない

 

おっしゃるとおり

と思う

 

しかも

世の中のあらゆる場面で

これ

 

観光名所でも

これ

満開の桜を前にしても

けっこう複雑な色の彩で織りなされる

紅葉を前にしても

これ

 

ふつうのヒトは

もはや

手持ちのスマホのモニター越しでしか

ものを見ない

 

しかし

スマホ普及とともに

この行動様式は広まったのか

といえば

もっと前から

いわゆるガラケーならぬ

携帯電話全盛の頃

お花見でも観光地でも

たくさんのヒトが

携帯電話を掲げるばかりという光景を

どこでも見た

 

さらに

それ以前では

一眼レフから小型カメラに至るまで

とにかくカメラを物に向ける

たくさんのヒトビトの光景に

日本ばかりか

世界中が覆われていた

 

つまり

問題の根源はスマホにあるのではなく

すぐに消え去っていく現在意識と

肉眼の欠点とを補完しようとするヒトの意志にあり

その時代に入手しやすい人工機具を

対象とのあいだに介在させようとするヒトの習性にある

と見たほうがいい

 

永遠

までは望めなくても

疑似永遠を

死すべき存在であるヒトはいつも希う

写真だのデータだの情報だのは

たえず消え去りゆく現在意識たるワレより

永遠っぽいのだ

そういう永遠っぽいものに

ヒト科は

わびしく引き寄せされ続ける

 

ペンどころか

かつては筆で記した

さまざまな記録や

随筆や和歌

俳句のたぐいも

あれらの時代にあってはスマホであっただろう

と思う

 

文字を記したり

なにか書こうとして

しばし

沈思黙考する時

ヒトは現実の対象から離れる

対象とのあいだに思念というモニターを設置し

さらには

文字や言語という抽象回路を介在させて

対象に対し

ひたすら間接的な対応をしようとする

 

永遠っぽいものを希うのをやめ

永遠という幻を捨てる時のみ

対象との遭遇は起こり

対象との合一も起こり得る

ヒト科が希う永遠なるものとは

片時も対象を喪失しない精神状態を意味するので

虚像としての“永遠なるもの”を捨てた時こそ

永遠の流入が

また

永遠への意識の流入が起こり得る

 

さらに付加すれば

永遠とは合一であり

他者との遭遇であり

そうした合一と遭遇において発生する自己喪失である

 

近代詩でなく

古代から中世の神秘主義宗教詩の霊域の仲間たちから

現代へと派遣されてきたわたくし

駿河昌樹は

20世紀21世紀の穢れた自由詩形式を弄びながら

この時代の文芸や文化なるものに全く属すことなしに

2023年においてこのように記しておく

 

プロティノスにも

古代ギリシア神秘主義詩人たち各位にも

イスラム神秘詩人のジャラール・ウッディーン・ルーミーにも

挨拶を送る

老荘の懐かしい老師がたにも

仏教界の覚者たちにも

 

とりあえず

ただひとつだけ

備忘のために記し直しておく

ルーミーの詩句

 

 

私の目は眠っているが

私の心は目覚めている

と知れ

一見活動していない私の状態は

実際には

活動しているのだ

と知れ

 

預言者の言葉のごとく

「私の目は眠っている。

しかし

私の心は

創造主に対して眠ってはいない」

 

あなたたちは

目は目覚めていながら

心は

まどろみに沈んでいる

私は

目は眠っていながら

心は

神の恵みある開かれた戸口に

観想の中で立っている

 

私の心は

肉体とは別の五感を持っている

外界と精神界

いずれの世界も

心の五感にとっては劇場

 

あなたたちの無力さの観点から

私を見てはならない

あなたたちにとって夜であるものが

私にとっては

朝真っ盛りなのだから

 

あなたたちにとって牢獄であるものが

私にとっては庭園

この世界でまったく完全に占領された状態であっても

私にとっては

精神における自由の状態

 

あなたたちの足が泥の中にあっても

その泥は

私にとっては薔薇

 

あなたたちは悲嘆にくれていても

私は祝宴の中で

太鼓の響きを聞いている

 

地上の同じ場所で

私はあなたたちと一緒に暮らしているが

天国の第七の階層を

通り過ぎているところ

 

だから

あなたたちの傍らに座しているのは

私ではない

それは私の影

私の列する場所は

思念の届く範囲よりも

高いところ

 

あらゆる思念を通り越えて

思念の領域の外を

すばやく行き来する旅人の私

 

そう

私は思念の支配者

思念によって支配されない

大工は

建物の支配者であるゆえ

 

体験したことのない者から見れば

まったくの偽りと見えよう

しかし

精神の領域に住んでいる者から見れば

これこそが現実

 

ジャラール・ウッディーン・ルーミー「マスナウィー」






2023年3月30日木曜日

冗談ごとじゃあねえんだぜ、こりゃあ

 

 

 

Hommes, ici n’a point de moquerie

                                François Villon

 

 

 

教科書会社の人が

フランス語のテキストの新刷と

付随したCDDVDを送ってきてくれたので

お礼メールを書いた

 

本業ではないが

(ちなみに地球上にぼくの本業はない)

バイトでフランス語をちょこっと教えたりしているので

こういうこともあるわけ

 

フランス語を教えるバイトを始めた頃は

世のオバサマがた同様

学生たちにも「おフランス」への憧れがあって

そこのところをチョチョっと突っつくと

いわゆる勉強のモチベーションとかいうのがちょっと上がった

 

けれども

時代の変化というのはすごくて

しかも

フランス自体の人気度の凋落もすごくて

長いこと日本で機能してきた「おフランス」への憧れは

もうほとんど機能しなくなっている

一般の学生たちは

フランスとかフランス文化にすっかり関心を失ってもいる

そんなことも書き添えた

 

軽佻浮薄なことではあっても

ちょっと前までなら

女子学生たちには「ブランド品」への憧れもあった

それらにまつわる話を振りかけると

めんどうな文法の話をしたりする時でも

気分を取りなおしてもらえて目がキリッとし直してくる

 

ところが

そんな「ブランド品」話のフリカケなども

なかなかむずかしくなってきた

日本経済の凋落と国内の貧富差の拡大で

「ブランド品」になど全く手が届かないどころか

視野にも入ってこない家庭の学生が増えた

銀座に行けばCHANELVUITTONには毎日長蛇の列が出来ていて

毎週のように数十万円のものを買っていく客層がいるが

そういう層とそうでない層との差はどんどん大きくなっていて

ふつうの大学生にはもはや憧れの対象にもならない

 

銀座のBULGARIのカフェやレストランなどにランチの時間に行くと

ちょこっとのパスタにちょこっとのサラダがついたランチが

だいたい4000円から5000円ぐらいだったりするが

けっこうたくさんの大学生や20代の若者たちが平然と頼んでいる

毎日のランチでそんな値段を楽々払えて

ランチの後はフェラーリで移動するような層が

それなりの人数で存在する事実があるTOKYO

大学の「フランス語」教育はどういうスタンスを取るべきか

けっこう考えさせられますよ

とも

書き添えておいた

 

「おめえさんがた、人間たち、冗談ごとじゃあねえんだぜ、こりゃあ」*

思い出されてきてしまう

あの

フランソワ・ヴィヨンの詩句

 

Hommes, ici n’a point de moquerie*

(オンム、イスィ ナポワン ドゥ モクリ)

 



 

*フランソワ・ヴィヨン「ヴィヨンの墓碑銘(首吊りのバラード)

François Villon L’épitaphe de Villon (en forme de ballade) 

 






絶対にここでもやらない

 

 

たいした量ではないものの

非常食として買い溜めっぽくしておいたスパゲティにも

賞味期限というものが来る

そういえばまだ大丈夫だったかな?などと包装袋を見ると

昨年の秋で期限が切れていたりする

そんな袋が三つも四つもあったりすると

ちょっと焦ってくる

急き立てられるようにして

うちにいる昼など

しかたなくスパゲティを食べることが多くなる

 

スパゲティは嫌いではないし

いざ取りかかり出してしまえば作るのも大変ではない

けれども

スパゲティでも作ろうかな?と思っている時点では

なんとなく面倒臭さが勝る

パンを数枚かるく食べて済ましたい気持ちになったりする

 

とにかく古いものを消費しないといけないのだから

今日はスパゲティにしてみるか?と決まってしまえば

後は時間の問題があるだけで

包装袋に書かれている「茹で時間」のぶん待たされるだけのこと

茹で時間8分とか9分というのはなんだか長いなあと思わされるが

あえる野菜などを切ったり炒めたりしていればすぐに経ってしまう

 

趣味の「男の料理」などにこだわるタチではないので

スパゲティ用のソースも使わずに

乾燥したトウガラシとニンニクとオリーブ油だけで味を付けることが多い

そこにあり合わせの野菜をちょっと加えてあえる

これがさっぱりしていちばんうまいし軽いし楽でもある

うちで作るスパゲティはこれだけでいいのだと発見するまで

けっこう人生時間がかかった

 

できあがって食べる時に

タバスコや粉チーズなどでちょっと味覚調整をするものだが

かならずゴマも摺って振りかける

それでも味がいまひとつかな?という時は

けっこう上質の海塩をつまんですこしずつ振りかける

スパゲティの味は食べながら振りかける塩でこそ調整できる

これに気づいたのはつい昨年のこと

必要だったのはタバスコや粉チーズではなかったのだ

 

振りかけかたにはちょっと気を使う

ほんの少しずつ振りかけては味を見てみる

少しでも多めにかけてしまうと求めている美味さは崩れてしまう

ちょうどよい加減を最後の最後で見極める

 

スパゲティの味だけでなく

最後の最後で美味さを決めるものは

ごたいそうなソースや調味料ではなく

ひとつまみの上質の海塩だったりするものだ

などと

人生の機微について知ったかぶりしたがったり

格言めいたことをつけ加えたがったりするチープな物書きや

チープな先行世代たちのマネは

絶対に

ここでもやらない

 

 





一生思い出に残るよね

 

 

桜の頃としては

めずらしいほどの雷雨となって

夕食時

なんとなく楽しくなって

カーテンを開け

室内のあかりを落して

暗い空から降り続けるさまや

ときどき光るかみなりを

見続けながら食べた

 

歳を重ねるほどに

雨が好きになる

 

雷など鳴るときは

たいへんだ

たいへんだ

などと言いながら

楽しくてしょうがなくなる

 

若い頃に

進学塾で教えていて

夏期講習などとなれば

9時から夜10時まで

教えていたりもする

労働基準法もなにも

あったものではなかった

 

ある夏の講習では

勉強する気のあまりない

中学3年生のクラスを

夜の最後の授業に持っていた

勉強する熱意はないが

気のいい子たちで

教えるのはイヤではなかった

特に女の子たちはきれいで

居るだけで華やいで

ドラマにちょうどいいような

舞台設定だった

 

授業の時間に

雷雨になったことがあった

教室からは夜の街が見わたせて

あっちに雷が落ちる

こっちにも雷が落ちる

けたたましい音とともに

そんな光景がずっと続いて

勉強どころではなかった

 

思い切って

教室のあかりを切って

二十分ほど

生徒たちと窓に貼りついて

雷雨の大騒ぎを見続けていた

あっちに雷が落ちる

こっちにも雷が落ちる

けたたましい音のするたびに

女の子たちは大はしゃぎで

花火大会を見ているようだった

 

もちろん勉強は

あまり進まなかったが

帰りがけ

生徒たちの興奮は覚めやらず

今日はよかったね

すごかったよね

いい授業だったよね

一生思い出に残るよね

などと言いながら帰っていった

 

あの教室の生徒たちよ

あれから

25年は経った今も

思い出に

まだ

残っていますか?

 

ひょっとして

さっきの桜雷雨に

どこかで降り込められたりして

若かった頃の

夏の

あの雷雨の夜を

思い出しませんでしたか?

 

苦しく

理不尽で

むなしいことばかりだった

進学塾業務の

あの頃

たった一夜の数十分のことながら

ふいに恵まれた

奇跡的な時間として

あの雷雨

いっしょにきみたちと

見ていられたことを

わたしのほうこそ

覚え続けている

 

今日はよかったね

すごかったよね

いい授業だったよね

一生思い出に残るよね

という

帰りがけの

きみたちのことばと

ともに





たったひとりで

 

 

桜の花も

もう

散っていく

 

近所の川沿いにも

桜の並木があるので

夜おそく

見に行ってみた

 

夜の川は暗く

不気味なところもあって

あまりよい時間帯ではないが

花数の減っていく木々の下

けっこう気分のよい

しずかな

しっとりした心になった

 

もう花盛りとも言えず

暗くて

ところによっては

黒いほどで

花もよく見えないのに

なにがいいのだろう

と考えてみる

 

そうして気づいたのは

たったひとり

夜陰にまぎれて

たくさんの桜たちとだけ

ずっといっしょ

ということだった

 

たったひとりで

というのが

しずかな

しっとりした心になった

理由だった

 

たったひとりで

 

やはり

桜たちとも