講談社文庫版の大岡昇平『野火』を持っている。
昭和47年第1刷とあるが、
私の持っているのは昭和60年11月5日の第5刷である。
読み通したことがないので、読み終えねばと思っていた。
読んだはずの部分の内容も忘れているから、
もちろん、冒頭から読み直さなければならない。
同じように読みかけの本はいっぱいあるから、
とくに必要に迫られてもいない場合の読書として、
あえて『野火』を選ぶ必然もないが、
激しい暑さの後にいろいろな災害が続いた今夏の終わっていく頃あ い、
命の極限に晒された兵士の孤独な物語に惹かれでもしたのか、
9月に入ってから、ふいと手に取る気になった。
詠み終えたことがないとはいえ、内容はわかっている。
高校時代には戦後文学研究会を作って、
不思議と同好の学生の多く集まった学年どうしで放課後に集まり、
どの作家のどの作品のどの部分がいかに面白いか、
戦争の残虐や悲惨をどれほどよく描いているか、
高度成長期以後の社会への批判がどう込められているか、
そんなことを語りあいながら、時には夜の7時や8時になるまで、
教室や広大な芝生の暮れていくグラウンドでいっしょに時を過ごし た。
どちらかといえば私たちは、武田泰淳や椎名麟三、
梅崎春生などを好み、まだ野間宏や埴谷雄高は持て余し気味で、
吉本隆明は上の世代が聖書のように持ち出すことから
食わず嫌いに毛嫌いし、私個人は花田清輝に心酔していて、
現代国語のレポートや記述式の試験では花田ふうの文体を真似して 、
批評家もどきを演じる高校生だった。
大岡昇平は私たちには地味に見え、あまり話題には出なかったが、
それでも『野火』や『俘虜記』や『レイテ戦記』などは
必読図書と認識されていて、古本屋で見つけでもすれば、
自分が持っていても、必ず、他の誰かのために買い足しておく、
そんな扱いの対象になっていた。
私自身も、確か、講談社文庫版の昭和47年発行の第1刷を
どこかの古本屋で買って、自室の書架に挿しておいたはずである。
その講談社文庫版の昭和47年発行第1刷は、どこで失われたか。
たぶん、私の人生を根底から覆し、
まったく予期も望みもしなかった方向へ脱線させてしまった
あの家庭崩壊事件の後、
母親によって、私のあらゆる書物とあらゆる私物とが処分され、
自分の家庭と思いこんでいた場所から、
私の存在と歴史が完全に抹殺されてしまった時ではなかったかと思 う。
少年時代から大学生時代頃までに買い集めた書物だから、
たいしたものはないと言えば、そうも言えるが、 社会に出てからよりも、
どれも、はるかに根をつめて真剣に本を読むような時代に
縦横に線を引いたり書き込みをしながらつき合った書物たちだった 。
私の手元に今ある昭和60年11月5日の第5刷は、
西暦でいえば1985年発行のものだから、世田谷住まいの時に
どこかの書店で新本を買ったものだろう。
その頃は井の頭線池ノ上駅の近くに住んでいたので、
当時、駅前にあったエンゼル書店で買ったのかもしれない。
あるいは、 職場のうちのひとつとして通っていた埼玉県南浦和駅近くの
文文書店か、線路沿いのもうひとつの、名は忘れたが、
品揃えに少し特色のあった書店で買ったのかもしれない。
そこではパラマハンサ・ヨガナンダの自伝を見つけてすぐに買い、
その後の人生に大きな方向転回が齎された思い出がある。
急ぐ読書でもないので、日々、わずかな暇を見つけては、
亀の歩むように、少しずつ読み進めた。
道草のような不要不急の読書の場合、就寝前に、
枕を胸にしながら、小さな燈火を近づけて読むことが多い。
フィリピンでの無謀な日本軍の戦いのさなか、
肺病を発症したことから、 軍にも野戦病院にも追い出された一兵士が、
ただ死へとむかってジャングルを彷徨するだけの話にもかかわらず 、
あかりも消さずに、そのまま眠りに落ちても、
意外に、悪い夢に陥っていったりはしなかった。
十八章「デ・プロフンディス」に来た時、
「地上で私の救いを呼ぶ声に応えるものは何もない」という文に、
鉛筆で線が引いてあるのを見つけた。
それだけでなく、その文の上に、 やはり鉛筆で丸印が付けられている。
この章は、その前のいくつかの章とともに、
山中彷徨の末に急に開けた原で出くわした無人の村で、
語り手の兵士が、 教会の中に複数の腐敗した日本兵の死体を発見し、
聖書にまつわる多少の考察の展開される部分である。
古本屋で買った本でないことは覚えているので、
鉛筆で線を引いたり、丸印をつけたのは、 かつての私でしかあり得ない。
…とすると、すでに、ここまでは読んだことがあったのか?
不審に思いながら、その後のページもぱらぱらと見てみると、
数は少ないが、ところどころ、線が引いてあったり、
丸印がつけてあったりする。
おかしいな、こんな後ろまで読んだ記憶もないし、
内容も全く覚えていないというのに…
そう思いながら、さらに、作品の最後のページまで行くと、
やはり、薄い鉛筆書きで、
1986年3月11日、了
とあり、
もうひとつ、
1997年7月3日、再読
とあった。
この記録に、私は驚いた。
私は普段、本を読み終わった後に、このように読了の印を
本に記入することはない。
フランス語でずいぶん根をつめて読んだサルトルの『 嘔吐』や
リアルタイムで読み続けたル・ クレジオの80年代の長編小説群などには
最後のページにフランス語で読了の記入をしてあるが、
あくまでそれらに限られていて、
日本語の小説作品などには、 読了などということを記入することはない。
とすれば、ル・クレジオなどの愛読に引き摺られて、
うっかり『野火』 にも同じような記入をしてしまった時期だったのか?
あえて推測するとすれば、このように思われた。
それにしても、
二度も読んでいるというのに、
『野火』を一度も読了したことがないと今の自分が思い込んでいたのが、
もっと私を驚かせ、なにか、異様な雰囲気に包まれるようだった。
2018年の、この秋のはじめにあたって、
なんとなく書架の隅の『野火』を手に取ってみて、
そうだ、そろそろ読了しておくべき作品だ、などと思い、
そうして少しずつ、夜な夜な、文から文、 ページからページを追って、
冒頭からの一文一文、どれにも一切の記憶なしに、
あの40代の大岡昇平の、やや読みづらい生硬なところのある文を
たどり続けていっていたのだ。
そうか、読んであったのか、
しかも、二度までも…
そう思い直しながら、さらに奥付まで捲っていってみると、
やはり薄い鉛筆書きで、いくつかメモがあった。
「紀伊国屋わきのカオール」
「えりか チョコを?」
「企画会議 午後二時 本部 3F」
これらは、手元にある本にとり急ぎのメモをとる癖のある私が、
いろいろな本に記す文字のいくつかで、今となっては、
もう意味もわからず、状況も思い出せなくなってしまっている。
ところが、
最後のもう一行、
「2018年の秋に」
このメモには、驚愕させられた。
2018年の秋に…何なのか、それは書かれていない。
たゞ、「2018年の秋に」だけ。
どういう考えで、どういう必要で、どのような状況で、
メモされたのか、まったくわからないながら、
まさに、「2018年の秋に」、 この自分の手になるメモに出会い、
まさに、「2018年の秋に」、メモを読み直している…
私の持っているこの講談社文庫版の大岡昇平『野火』には、
もう古くなったというのに、 まだカバーがきれいな状態で付いている。
そこに描かれている絵、というか、デザインというかは、
黄みどりの上に、 もう少し濃いみどりの液を垂らしたようになっていて、
陶器の表面のような雰囲気を出してある。
昭和の終わり頃に有名だった装丁家の栃折久美子による挿画である 。
この人の装丁が好きだった友がいて、
あれこれの本を見ては、これも栃折久美子、
あれも栃折久美子、
やっぱり栃折久美子のは…などと、よく語っていた。
その友の消息も途絶えて、久しい。
もう死んだのかもしれない。
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