2018年9月8日土曜日

スキロフニミナの飲み物


 
ぼくは自分の中をみつめるよりも、窓の外をみつめてしまう。
ぼくはそんなふうに生きている。
ぼくの中心は窓の外にあるんだ。
布村浩一『横浜』



入り江からずいぶん上ったところです

途中の坂はなだらかで
メロポントスの小花が道端に
ぷつぷつ
ろつろつ
たいそういっぱい咲いていました

まるで幼時の
もっとも甘美な瞬間にでも
たちまち戻らせられるような
あゝ、
若みどりの草々のふかふか咲いた
高原
…などというと
まだまだ冷たげな言い方になってしまうかな?
やっぱり
原っぱ
…と呼ぶべきでしょうか

とても大きな原っぱがひろがっていて
わたくしのこころはよろこびました

ですから
こころに言ったのです

「おい、こころよ、まったく
「予想もしなかった原っぱに
「来てしまったものだね
「いいから、自由に飛びまわっておいで
「わたしのほうは
「いつまでも待っているからね

もちろん
こころはすぐ
わたくしの胸を去り
力いっぱい原っぱの若草の上を
あっちに行き
こっちに行きしながら
駆けまわったり
飛翔したり
そうかと思うと
地面をころころしたり
とにかく人間の肢体でない
まったく可塑的なやつですから
ちょっと見るとなにがどうなっているのか
まるで見当もつかないようなぐあいに
ちょうどキャンバスの上に
絵筆でぐにゃっぐにゃっと
絵の具を引きのばしてみたようなふうに
くっきりとした輪郭など見えない
方向を変え続けるひかりの流れのように
どぅどぅどぅどぅどぅどぅと
移動するというか
走り続けていくしまつです
絵の具と違うのは
決まった色がないところで
そうかといって
まったく色がないわけでもなく
虹色になったかと思うと白色になり
急に金色にもなったり
キラキラ感のある紺になったり
なんともかんとも
ほんとうに説明に窮してしまう有様です

こころにこんなふうに
勝手に駆けまわらせていながら
わたくしはといえば
小さなカフェのような店のテラスで
つばの広い帽子をぬいで
顔をちょっとはわはわ扇ぎながら
奥から出てきた
白い民族衣装みたいなのを着た娘さんに
なんでもいいから
ひとつ飛びっきりさっぱりした
おいしい飲み物を頼もうとしました
すると肌の白いきれいな丸顔の娘さんは
「スキロフニミナの葉の飲料がおいしいですよ」
はじめて聞いた名だけれども
ここでははじめてのことだらけですから
このよくわからない葉にも興味が湧き
注文してみることにしたのです

娘さんが持ってきたスキロフニミナの飲み物は
ちょうどさっき見たような
原っぱを駆けまわるこころの
あの動きそのもののような
まったくもって
なんとも形容できないような
色があるのか
ないのか
グラスの中で流れているのか
それとも
どんな飲み物においてもありえないほど
超絶的な停止状態ででもあるのか
いくらじっと見つめても
まったくわからない
異様な透明感と白濁感と全色感とが
入れ替わり
立ち替わり
し続けているような様子で
なんだかちょっと怖いようで
ほとんど危険な液体のようにさえ見えました
ちょっとビクビクしちゃうかなぁ、と言うと
大丈夫です
ちょっと飲んでお見せします
と娘さんは言って
サァッと一口含みました
そうして
喉をヒクヒクさせ
ゆっくりと呑み込んで
「あゝ、やっぱり、とても爽やかでおいしい!」
なんだか
さも自分がお客ででもあるかのような顔です

ともあれ
大丈夫そうだというのはわかったので
わたくしも飲んでみることにしました
あたまの中では
(スキロフニミナねぇ…
(スキロフニミナねぇ…
(スキロフニミナねぇ…
などとだれかに語りかけるように
この葉の名がくりかえし鳴ります

飲み物の味をしっかり味わう前に
娘さんがわたくしの胸に手をあててきて
「こころはどこへ行ってしまったの?」
とふいに聞いてきました
「こころは、ほら、あそこに…」
と指をさして示そうと思ったのですが
さっきまでこころが駆けまわっていたあたりに
どうしたことでしょうか
もうこころは見当たりません
「おや、さっきまであのあたりに…」
と見まわしてさがそうとしましたら
「いいんです
「これからはわたしが
「あなたのこころになりますから
と娘さんはわたくしの耳に口を近づけて言い
耳からなのか
それとも胸のどこかの隙間からなのか
ふいっとわたくしの中に入って
わたくしのこころになってしまったのでした
以来わたくしはじぶんのこころが
いっそうよくわからなくなってしまい
他方わたくしのほんとうのこころは
あいもかわらず
喜びいさんでどこかを駆けまわっているまゝですから
わたくしはなにかというと
わたくしのなかをなどではなく
わたくしの外ばかりを
見つめ続けるようになってしまいました

入り江から
ずいぶん上ったところで始まったおはなしです

途中の坂はなだらかで
メロポントスの小花が道端に
ぷつぷつ
ろつろつ
たいそういっぱい咲いていました




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