2020年9月9日水曜日

敬体で、です・ます体で、

 

眠りに入っていこうとする時でしたか、

それとも、目覚めはじめた頃のことでしたか、

もう数日前の、いや、先週の、

はじめの頃のことだったかもしれません。

 

ふと、思いのなかに浮かんできたのは、

今のこの時代、詩歌はもう常体で書くべきものではなくて、

敬体で、です・ます体で、書くべきものなのではないか、

ということでした。

 

なにをどう書き記そうが、もう、常体はひとの心に入っていかず、

たゞ敬体だけに、わずかに、心への浸透の可能性が

心の扉をすこし開かせる秘訣が、残されているのではないか、

そんなことを、うつらうつら、思ったのでした。

 

昔、文芸評論家の中村光夫が、つねに、敬体で批評を書いたように、

どこか粋がったり、気取ったり、上から目線ぶったり、

カッコをつけたりしがちな二十世紀以降の詩歌も、

口ぶりをすっかり変えるべき時期に来ているのではないか、

 

あの、いわゆる現代詩なるものの、どうだ、お前らにはわからんだろう的な、

あの高飛車振りを、敬体でまあるく削ぎ落とし、なめらかにして、

とにかくも「~です」「~ます」してみるべき大きな転換期に、

じつは、もう入っていたのではないか、と

 

思った、とか、思いついた、とか、そういうのよりも、

ほわーんと、はっきりした別種の気体が目の前に浮かんでいて、

見落としようもなく、それに気がついた、といった、

そんな感じだったのです。

 

たゞそれだけのことなのですが、気づいてみると、

どうしてこんな当たり前のことに、今まで気づかないでこれたのか、

不思議というより、なにかの幕のようなもので、これまで、心の目を

覆われ続けて来ていたかのようにさえ思われたのです。





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