眠りに入っていこうとする時でしたか、
それとも、目覚めはじめた頃のことでしたか、
もう数日前の、いや、先週の、
はじめの頃のことだったかもしれません。
ふと、思いのなかに浮かんできたのは、
今のこの時代、詩歌はもう常体で書くべきものではなくて、
敬体で、です・ます体で、書くべきものなのではないか、
ということでした。
なにをどう書き記そうが、もう、常体はひとの心に入っていかず、
たゞ敬体だけに、わずかに、心への浸透の可能性が
心の扉をすこし開かせる秘訣が、残されているのではないか、
そんなことを、うつらうつら、思ったのでした。
昔、文芸評論家の中村光夫が、つねに、
どこか粋がったり、気取ったり、上から目線ぶったり、
カッコをつけたりしがちな二十世紀以降の詩歌も、
口ぶりをすっかり変えるべき時期に来ているのではないか、
あの、いわゆる現代詩なるものの、どうだ、
あの高飛車振りを、敬体でまあるく削ぎ落とし、なめらかにして、
とにかくも「~です」「~ます」してみるべき大きな転換期に、
じつは、もう入っていたのではないか、と
思った、とか、思いついた、とか、そういうのよりも、
ほわーんと、はっきりした別種の気体が目の前に浮かんでいて、
見落としようもなく、それに気がついた、といった、
そんな感じだったのです。
たゞそれだけのことなのですが、気づいてみると、
どうしてこんな当たり前のことに、
不思議というより、なにかの幕のようなもので、これまで、
覆われ続けて来ていたかのようにさえ思われたのです。
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