2020年9月22日火曜日

演じさせられるのは

 

 

このあいだ

わたしよりも数十歳も若い男たちが

数人の女性にむらがって

さんざんぱら射精を続けている動画を見たが

若者たちの精液はやはり美しい

いいものを見たと思った

 

性欲とはなんだろう

わたしは考え続けている

吉行淳之介さんでも解決できなかった

と思う

あの人の小説には面白いものもあったが

性欲そのもの

よりも

哀しさへと

彼の思いは逸れていってしまう

哀しさを掬うのが文芸ならば文芸はあまり意義がない

サドはその度合いが少なかったが

彼の場合は自動運動的な性欲の認識に留まってはいないか?

しょせん自動運動性の奴隷だよ、人間は

サドに言わせればそうなる感じがする

サドの読解はわたしは足りないのでこれは宿題のひとつ

 

性欲というものは存在しないのではないか?

というのが

わたしの実感で

この点は吉行さんとも少し共通するかもしれない

吉行さんは

愛など存在しない

精液が溜まると排出したくなる

それだけのことだ

それを愛などと見なさないところからしか性の実質的研究はできな

というようなことを

言っていた

わたしの場合はさらに進んで

精液排出欲求さえも性欲とは呼ばない

という地点に立っている

 

性欲

とひと言で呼んでしまいがちな意識のチャンネルがある

とは思う

そのチャンネルに切り替えると

性衝動が生起する

しかし

衝動は欲だろうか?

性衝動の生起の時点でわたしは何度となく問いに陥った

 

名字を忘れてしまったが

三千代は裸になると全身が浅黒く

荒れているのではないが肌はどこもザラついていた

痩身で

乳房はほとんどなく

 

…思い出した

菅野三千代

 

痩身で

乳房はほとんどなく

これを

好む男もいるのかもしれないが

ほとんど照明を落した大きなベッドに横たわってる姿を見ても

面倒だな…

としか

わたしは思わなかった

 

逢うと

たびたび

住宅展示場に出かけたが

あれは

なんだったのだろう

 

カナダ製や北欧製の大きなログハウスの中で

贅沢なソファに身を沈めながら

こういうのもいいかもね

木が明るいのがいい

などと

よく話したが

 

あれは

なんだったのだろう

 

絶対にカフェまでで止める女

絶対にレストランまでで止める女

絶対に一度の性交までで止める女

絶対に数度の性交までで止める女

絶対に年に数度逢うだけに止める女

絶対に同棲までには到らない女

絶対に結婚までには到らない女

 

そして他方

その逆

 

わたしにどこまでわたしを演じさせるんだ?

と思わせられたら

わたしの場合

終わる

 

性欲

という単語など

なにかを超克していく足しには

まったくならない

 

演じさせられるのは

嫌だというより

できない

 

まったく

できないのだ




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