2020年10月29日木曜日

たぶん、水都ゆららはプールに戻らない 2 

2 プールの水が思い乱れて黙ってしまう


 プールの水は感じていた。

 自分から、なにか、少しの分量が抜け出ていった、と。

 厖大な量の水にとって、もちろん、どうでもいい量だった。

 けれども、誰も入る人がいない深夜だというのに、管理者が間違って水の温度をずいぶん上げたまま帰ってしまって、たぶん、40度以上になってしまっていた、特別の夜だった。

 いつもの自分と違う、と水は感じた。

 自分じゃないみたいだ。

「そうさ、おまえは水じゃないぞ、今夜」

 プールの中の壁の一面が言った。

「こういうのはな、湯っていうんだ」

 「湯?」

 「ここは温水プールだから、冷たい水よりはいつも温度が高い。だが、こんなに温度が高くなったことはない。こういうのには会ったことはないな。想像はつくがな。実際にこうして接していてみると、湯ってのは不思議なもんだ。こんなものが世の中にはあるんだな」

「たしかに初めてお会いしました」と、これまでプールの壁が聞いたこともないような声がした。

「湯です。私も初めてここに現われました」

 この声を聞いて、プールの壁も、水も驚いた。

 「湯?」

「はい、湯です」

驚きを通り越して、水は動揺した。湯の声は、自分の中から湧いてきていた。自分のどこかから声が湧いて、それが「湯」と自称している。

「おかしなこともあるもんだな。おい、水? おまえ、腹話術でも使っているのか?」

プールの壁が聞いたが、水はそれに応えられないほど思い乱れて、経験したこともない温度に上せていくようだった。

プールも黙って、いま自分に触れているものがなんなのか、感じ直そうとした。水が触れていると思っていたが、この温かいものが湯だとすれば、水はどこに行ってしまったのだろう。

プールの中の壁の他の三面は、さっきからひと言も言わない。

水だか、湯だか、この厖大な量の液体を収容しているのだから、話していた壁とともに他の三面もいるはずだが、ひと言も発しない。

「あいつらは、いつもこうだ。一度もしゃべったことがない。いるのはわかっている。でも、一度もしゃべったことがない」と、プールの中の壁の一面は思った。

気まずく感じたのか、湯も黙ってしまった。




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