2023年8月28日月曜日

まるで夏の終わりの嵐が過ぎたあと


 

 

「松田聖子」というスターの「製造」は

多面的な調査による社会学的・現代史学的研究対象にこそ

ふさわしい

 

あまりにも複雑で面白過ぎて

よくできた小説をさらに上回る物語的興趣に

富む

 

https://youtu.be/_VFg05LZEws?si=tGQ692Ep4Bnm55RW

 

https://youtu.be/iYnYmbXwYO0?si=t4DzPVvwZx5Cd-aR

 

https://youtu.be/8RjHyUIV_Tg?si=Bh3jBTyxmLMM0jIN

 

https://youtu.be/fBi13Ev0SOY?si=kEhEhyx9TByiXi64

 

 

 「松田聖子」以前の久留米市出身の少女

蒲池法子(かまちのりこ)が

オーディションに落選しまくり

たびたび禁止や挫折によって妨害されてきたのを知ると

「松田聖子」の成立がどれほどの奇跡と努力の産物だったかがわかり

「松田聖子」になんの興味もない人間も

強く惹きつけられていく

 

福岡でのテイチク新人歌手オーディションに二次審査で落選

第二回ホリプロタレントスカウトキャラバン九州大会に

書類選考の第一次審査で落選

この一次審査に合格した友人とコンビを組み直して

ピンクレディーの曲で出場し

最終審査に残ったが優勝できず

 

ようやく

CBS・ソニーと集英社『セブンティーン』が主催する

『ミス・セブンティーンコンテスト』九州地区大会に送ったテープでは

予選合格

九州地区大会に出場したら優勝

全国大会へ出られそうになるものの

厳格で芸能界を認めない公務員の父は反対

法子の顔を引っ叩くほど

 

通っていたカトリック系の久留米信愛女学院高等学校も

もちろん認めず

全国大会or退学を迫ってきたので

蒲池法子は全国大会は辞退せざるを得なかった

(ちなみに

法子は

キリスト教研究部に入部して

聖書の勉強に勤しんでいた)

 

ここに奇跡が起こり

CBSソニー企画制作部の若松宗雄が出現する

 

決戦大会を視察してこれといった逸材を発見できなかった若松宗雄

コンテストやオーディションが

最初の時点で見落としをし過ぎているのでは

と考え

各地区の出場者のデモテープを取り寄せて

プロフィールも写真も見ずに

音声だけの資料を100名分ほどチェック

 

そこで蒲池法子の歌声を聴き

衝撃を受けて

「この子は絶対に売れる」と確信

コンテストやオーディションを通さずにデビューさせる決意を固め

 

「まるで夏の終わりの嵐が過ぎたあと

どこまでも突き抜けた晴れやかな青空を見た時のような衝撃でした

後に若松宗雄

 

若松は法子の父親のもとにたびたび通い

半年以上かかって説得

さまざまな困難が次々起こるなか

ようやく

「若松さんに預けます。

あなたに預けますから責任を持って預かって下さい」

という父親の許可を得るに至る

 

このあたりのことは

今後

ドラマや映画にしていける

豊富なエピソードに富んでいる

 

 

歌手を目指せることになった法子は

福岡にあった平尾昌晃音楽学校に週2回通い

稽古を積む

 

その間

若松は所属事務所探しをし

まずは渡辺プロ系の東京音楽学院九州統括福岡校の支部長に声をか

支部長も法子を気に入ったが

東京の渡辺プロ本社は否定的だった

「この娘はガニ股でテレビ映りが良くない。

舞台でも問題がある」

という理由で不採用

 

若松が次に持ちかけた

「プロダクション尾木」の尾木徹社長も不採用

 

サンミュージックプロダクションの相澤秀禎社長だけが

面接してみることを認め

社長ほかスタッフ2030人の前で

法子のプレゼンテーションが行われる

しかし印象は悪く

田舎から上京してきたばかりの垢抜けしない爽やかでない娘

と判定され

採用には至らない

 

しかし

ここにも奇跡が起こり

法子の歌唱を聴いた音楽プロデューサー

幹部職員の杉村昌子が熱烈に推し

社長を動かす

 

堀越高等学校に転学するための面接の際にも

法子の印象はよくない

面接官の教師は

「あの子本当に歌手としてやっていけるんですかね?」

と若松宗雄に疑義

法子の潜在力を信じていた若松は

「大丈夫です」

と答えた

 

面接で転入合格が決まると

法子の東京生活が始まることになり

毎朝5時半に起床

30分のジョギング

タレントとしての心構えや一般常識

マナー

人との関わり方など

徹底教育が行われていく

 

ジョギングの途中に寄る小さな祠では

「毎日、誰よりも厳しいレッスンを積んで努力します」

と法子は

声に出して拝んだ

 

昭和時代の俗謡としての「松田聖子」の歌の歌詞は

詩歌に関わる者には

つねに注目対象で

特に

初期の三浦徳子による歌詞から

「白いパラソル」以降の松本隆による歌詞への移行は

再三立ち戻って検討すべきポイント

 

三浦徳子は

はじめて法子の歌声を聴いた時

「いくらでも声が出るんで驚きました。マイクなんかいらないくらい」

と思った

 

初期の「松田聖子」の曲を作曲した小田裕一郎は

「松田聖子」的歌唱法として

「母音をしゃくりあげるような歌い方」をレッスンした

それにあった歌詞を的確につけていったのが

ポップス作詞の天才

三浦徳子

 

ちなみに

三浦徳子は

青土社の「ユリイカ」「現代思想」の編集長だった三浦雅士の妹

なあんだ!

とも思わされ

どおりで!

とも思わされる

 

https://www.chunichi.co.jp/article/241644

 

 

「松田聖子」の「母音をしゃくりあげるような歌い方」は

プロの歌手ならば

もちろん模倣できる

 「松田聖子」のライバルとされ

仲が悪いという話を捏造された中森明菜が

「松田聖子」へのリスペクトを表明し

「松田聖子」的歌唱を真似て見せたことがある

 

https://youtu.be/RQcm_y8cRrs?si=srxo_DbrWsc4t7co







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