2023年10月31日火曜日

最後の最後を見収めることはできない

 

 

 

だれひとり

じぶんの人生の最後の最後を

見収めることはできない

 

なんでも

じぶんでじぶんを

コントロールしようとし

コントロールできるかのように

信じ込んでみたがる

現代の考えの傾きかたを

見聞きするたび

アハハハ

と笑ってしまう

 

腕の脈をとって

ご臨終です

とじぶんに告げる

医師にはなれない

 

死んだ

じぶんのからだを

洗い清めるのも

じぶんではできない

 

じぶんを柩に納め

顔のまわりに

隙間なく花を飾って

蓋を閉め

霊柩車に運び入れるのも

じぶんではできない

 

火葬場で

最後の浄化の炎を

点火するのも

じぶんの指ではできない

 

じぶんの墓にむかって

手をあわせる時

あれ?

水入れの底が

ちょっと汚れちゃっているな

などと気づき

ティッシュなどを出して

それを拭うことさえ

じぶんでは

もう

できない

 

じぶんの最終章をじぶんで書く

ということの

この

絶対的な不可能性をこそ

人生

というんだよ

 

たぶん





きみ自身が暮らした場所や馴染んだ場所のこまぎれの動画


 

家のなかの

じぶんの部屋とか

廊下とか

キッチンとか

居間とか

玄関とか

押し入れとか

洗面所とか

お風呂とか

トイレとか

 

じぶんのふだんの

そんな

生活空間を

とにかく

スマホで動画で撮っておきなさい

若いひとに勧めている

 

だれもいない時がいい

慣れ親しんでいる空間を

へんな演出などせずに

ただ撮影しておく

長まわししなくていい

三十秒でも一分でもいいから

(それだってけっこう長い)

短く撮っておく

なんなら

何度も撮ってもいい

 

何年も

何十年もすると

そんな映像こそが

きみの貴重な宝物になるよ

 

じぶんの机の上の散らかりようでさえ

どんどん変化していっていて

二度と同じ散りかりかたは戻ってこない

当たり前のように

机の上に乱雑に転がっているものが

じつは

いまだけの

この数日や

数週間や

長くても数ヶ月程度の

期間限定の

偶然のモノたちの集まりで

本やお菓子や

メモ帳のたぐいも

しばらくすると

きみはもう

べつのものを買うように

なっているはず

 

あきあきするほど

馴れきって

なんの面白さも感じなくなっている

いまの家のなかとも

ある日

ふいにお別れする時が

来たりする

 

そうなると

いまの住まいの内部へは

二度と

アクセス不能になる

ありきたりの

あたりまえの

日常そのものの

いまの身のまわりの風景が

二度と眼前に出現することのない

永遠に失われてしまうものに

なる

 

未来のじぶん自身にこそ見せるために

と考えて

じぶんの住まいのなかや

馴れきった

戸外の風景や

よく歩く道の下手なスナップを

動画にして溜めていくと

数十年後には

すばらしいプレゼントになるよ

じぶん自身に対して

その頃にいっしょにいるであろう

いまはまだ

会ってもいない

ほかのひとたちに対しても

 

やがては

きみも老いて

病んで

もうどんな活動もしなくなり

新しい映画も

本も

見たくもなくなり

寝たっきりのようになるだろうが

そんな時に

きみが撮り溜めた

きみ自身が暮らした場所や

馴染んだ場所の

こまぎれの動画は

驚くべき喚起力を発揮するようになる

 

どんな映画よりも

どんなにきれいに作られた

プロの手になる

ビデオクリップよりも

 

そんな

きみの精神史の

たましい史の

最終場面近くでは







癖の棘



 

古い知りあいから

また

メールが来た

 

ときどき

メールを送ってくる

 

本当に

“ときどき”で

八ヶ月とか

十ヶ月ぶりぐらいは

ごくふつう

 

一年半ぶりとか

二年ぶりとかも

ふつう

 

メールが来ると

本を薦めたり

あれこれ

助言をしたりするので

なんどか

やりとりが繁くなるが

それが一段落すると

また

一年とか二年とか

音信不通になる

 

今回も

何年かぶり

 

このひと

もう死んだのではないか?

と思っていたが

生きていた

まことに

水のごとき交わりである

 

女性で

五年ほど前に乳ガンに罹り

手術と治療と

その後のリハビリとで

だいぶ大変な時期もあったようだが

再発もせずに

落ち着いてきたという

 

しかし

このひとの場合

家族などにかかわる周囲の環境が

ひどい

 

家の中ではつねに荒れ狂い

外でも

あちこちで

暴力沙汰を起こしたり

入院しても院内で暴言三昧

医師にも

看護師にも

暴行を続けるというような

ほぼ異常者だといえる父親のことで

さんざん苦しみ

そういう父親が死んだら死んだで

いろいろな残務処理に追われ

弟も高次機能障害とされる精神疾患で

あちこちで問題を起こし続けており

そこへ持ってきて

今度は母親の認知症が始まり

日々のいちいちのことで

コミュニケーションがうまくいかなくなり

こんな家族に囲まれつつ

よくガンが再発せずにいられたものだと思えてしまう

 

ひさしぶりに来たメールに

こちらから返信したのもつかの間

次のメールには

今度は義父が危篤状態になってしまって

夫は病院に行きっぱなしになり

彼女のほうもあたふたして

葬儀社への問い合わせに明け暮れることになった

と書いてきた

 

以前には

夫が職場で不当解雇されたというので

こちらが労働組合の闘争に多く関わっていた時だから

いろいろと助言もし

場合によっては乗り込んで行って

闘うとも持ちかけたが

その職場から離れて

他の職になんとか就いたので

労働争議はしないで済ます

というようなことに落ち着いたりした

 

とにかく

後から後から

なにごとか起こり続けるひとで

こういう宿命というものもあるのか

とか

なにかに祟られているのではないか

とか

思わせられる

 

そう思いながら

このひとからのメールの文面を見ていると

あ?

あ!

と感じるようなものも

ないではない

 

ひとはものを考える際に

思念のかたまりを形成しては

しばらくそこに留まって

その後

べつの思念のかたまりを準備しながら

ものと思念に足を置き続け

やがてそっちの思念へと移行し

そんなことを繰り返しながら

思考の流れを作って

自我というものの「いま」を形成していくが

そうした

思念から思念への移行のあたりで

ちょっと

不要のシコリがある

このひとの場合

感じられる

 

そのシコリは

わるい想念というわけでもなく

悪意のようなものでもないのだが

思念の流れを作る際に

エネルギーの流動を変にさまたげる作用をする

そうして

もともと奥底に抱えている

古いわだかまりのほうへ養分を与えてしまう

 

思念の流れを作る時に

そうした癖のあるひとなんだなあ

と気づかされ

これが

いろいろな不要の問題を

たえず作り出すきっかけになっている

と感じられる

 

本人は

これをうまく手放したり

解消したりする方向では

なかなか

これに気づけないので

つらい迂回をするようでも

結局は

いろいろなごたごたが出来してきて

思念形成において疲れ切っていくのが

有効だと言える

こういうひとの人生は

むだなことに小突き回され続けて

疲弊し

諦念へと向かっていく他ないが

しかしながらそれが

最良の治療でもあって

人生のムダとは言えないし

無意味などとはまったく言えない

 

次々起こってくる

いろいろな問題に右往左往し

心の落ち着く暇もないのが

このひとのもっとも深奥の問題を浮き出させ

溶解し分解させていく

最良の過程といえるのだから

人生なるものも

やはり捨てたものではない

 

それにしても

このひとが悪いのではないのだ

と思いながら

長年

長く続く連続ドラマのように

このひとの人生を見続けてきてみると

ひとりの人間の

身体とか

精神とかいうのよりも

もっと奥の

宿命と呼んだほうがいいかもしれない奥の基体に

変なふうに食い込んだり

刺さった

不要の癖の棘のようなものを

うまく外すのには

本当に手間がかかると

あらためて

気づかされる

 

もっと

簡単に

手ばやく

それらを抜き取ったり

外したりすることができるはずだと

検討し続け

探し続け

試し続けているのが

今生も

わたくしの課題

 

地上に形式的に整った理想社会を作ろうとなどせず

どのひとの基体からも

エネルギーの流動を邪魔する過去由来癖を

癖の棘を

サッと取り除くすべをこそ確立し

洗練することにしか

平和の実現はないし

安寧の実現も

真の喜びや幸福の実現もない

 

ここまで

自力でわかるひとたちなら

なにをすべきか

だれでも

もうわかっている







2023年10月28日土曜日

アルベール・ベガンのフローベール批判

 

 

 

文芸批評家アルベール・ベガンは

バルザック論の中でフローベールをこっぴどく非難している

 

とりわけ文体については

フローベールの

「いつも同じような三つの律動的文要素からなる文章と

予期したとおりの結句を

果てしもなく繰返すこの偏執ともみえる完璧さ」

比較される場合

バルザックの「おどろくほど自由な用語(ラング)が

不完全なものと断じられる」

と批判している

 

ベガンが拠りどころとするのは

文芸批評家アルベール・ティボーデの著書

『ギュスターヴ・フローベール』(A. Thibaudet : Gustave Flaubert, 1935)の中のフローベールの文体論である

 

 

ティボーデによれば

演説調を基調とするフローベールの文体が

理想的なリズムと諧調に達する時

長短の秩序によって配合された三つの文要素 (membres)

綜合文(une période) を構成する

 

 『ボヴァリー夫人』にその傾向が著しく

ティボーデは

一例として次の文を引用している

 

 Le souvenir de son amant revenait à elle avec des attractions vertigineuses (1); elle y jetait son âme, emportée par un enthousiasme nouveau (2); et Charles lui semblait aussi détaché de sa vie, aussi absent pour toujours, aussi anéanti que s'il allait mourir et qu'il eût agonisé sous ses yeux. (3)

 

ベガンは

この引用箇所について

「概括的に見ても

この場合

1:1:2の比率が窺われる」

としている

 

たしかに

文要素 (membres)

それを合わせての

綜合文(une période) 構成のしかたにおいて

フローベール基準とする必要はないわけで

もしバルザックのいっそう自由な文構成のしかたを基準とすれば

フローベールは

狭い形式性に囚われたリズムの指向者に

過ぎないことになる

 

 

 

*引用箇所は『真視の人バルザック』(アルベール・ベガン著、西岡範明訳、審美社、1973)によった。原著は、Albert Béguin : Balzac visionnaire, Ed.Skira, Genève,1946)






君も我も昭和の

 

 

昭和など

198917日に

疾うに

終わってしまい

 

その後の

なんだか安っちい年号だな

と思った

平成も

2019年4月30日に

終わってしまい

 

いま

令成……じゃなくて

令和

なんだとか

 

昭和の最後に生まれた人でも

もう

34歳なのだ

 

むかし

子どもの頃に

明治生まれの人なんかを

しげしげ見て

♪汽笛一声新橋を……

とか

♪ザンギリ頭を叩いてみれば……

とか

文明開化

とか

その頃から地上で息をしている

明治時代の人か……

ちょっと驚いたり

していたが

いまじゃ

昭和生まれが

そんな驚きの対象

だんだんと

絶滅危惧種にも

なりつつ

あって

 

星野立子に

 

君も我も明治の生れ初詣

 

という句があるが

そろそろ

書き換えて

 

君も我も昭和の生れ初詣