2023年10月4日水曜日

シューニャ

 

 

 

如来の身は無量で、測り知ることができない。

 『華厳経』

 

 

 

 

仏教でいう「空」のことなら

日本人はだれでも

だいたいはわかっていると思ってしまう

 

「空」っていうのは

なんにもないっていうことで

無ということで

からっぽで

むなしいということで

がらんどうで

だいたい

空虚

っていうじゃないか

あれだよ

 

そう思って

わかっているつもりになる

 

なまじっか

昔の中国から借りた漢字を中途半端に使って生きているから

こういう間違った理解を

平気でして

わかったつもりになっている

 

ご大層な哲学や倫理学の先生でさえ

サンスクリット語やパーリ語を学んでいなかったり

インド哲学や仏教哲学を

それらの語を通して学んでいない人の場合には

「空」については

ろくな説明も解釈もできない

たいていは

日本語でふつうに使われている漢字の「空」の意味あいに

徹底的に引き摺られて

「無ということですね

なんにもないということですね」

などと

学生に語ってしまいかねない

 

「空」の原語は

サンスクリット語の शून्य, śūnya(シューニャ)で

この語は形容詞であり

「欠けている、空っぽな、うつろな」などの意味を出す

もののありようを形容する言葉に過ぎず

文の主語にはならない

 

「合成語の終わりの部分として

『……が欠如している』『……がない』という意に使われるが

単なる「無」(非存在)ではない」

と『佛教大辞典』(東京書籍)は書いている

 

つまり

「空」は無ではない

なにもないことではなく

在ると考えられているものが「ない」のを意味し

在ると考えられているものが先だって在ると見なされていることが

「空」使用の前提となる

 

これだから

どんな言語のものであれ

外国文学や外国思想には注意しろ!

となるのである

まずしっかりとそこの言語を学ぶこと

基本語の意味あいや使われ方をしっかり確かめること

ちょっとやそっと学んでも記憶はどんどん薄れていくから

どこまで行っても語学語学語学である

漢文で経典をちょっと齧ってわかったつもりになったり

さらにいい加減な寺の生半可な坊主の知ったふうな説明を聞き齧っ

だいたいのことはわかったつもりになっていると

ろくに三途の川も渡れなくなる可能性が出てくる

地獄の沙汰も語学次第となる

 

しかも

形容詞シューニャの元になる動詞śvayate(シヴァヤテー)

「膨れ上がる」を意味し

これが過去分詞となるとśūna(シューナ)となり

形容詞として用いられて「膨れ上がった」状態を表わす

病気でむくんだり

腫れたりする状態を表わすのにも使われる

 

さらには

形容詞シューニャや名詞のśūnyatā (シューニャター)は

数学では数字のゼロ「0」を表わしている

サンスクリット語では「0」を

シューニャとかシューニャターと呼ぶ

 

幸いなことに漢訳されなかった

(すなわち歪められなかった)

最初期の仏典『スッタニパータ』では

ブッダ(「ヴァッタ」と呼ばれている)がこう教えている

 

つねによく気をつけ

自我に執着する見解を打ち破って

世界をsuññaであると観察せよ

 

『スッタニパータ』は

三世紀頃の北インドの言葉であるパーリ語で書かれているので

śūnyasuññaとなっているが

漢字で訳すとすれば

これが「空」にあたる

 

このsuñña

これまで見た動詞śvayate(シヴァヤテー)の語義も含めて

意味を考えてみると

 

つねによく気をつけ

自我に執着する見解を打ち破って

世界を膨張したもの、膨れ上がったものであると観察せよ

 

と読むことができる

 

ブッダの伝えようとしている「世界」とは

無や

虚無や

なにもない

などということとは真逆のイメージであって

むしろ

どんどん膨張していく

多様多数のもので過剰なまでに満ち満ちた充満空間である

と捉えたほうがよいかもしれない

 

その膨張のぐあいがあまりに速く激しく

ついさっきまで「世界」と見えていたかたちが

今はもう変化して跡形もなくなってしまっている

すこし経てば今の「世界」のかたちもすっかり消え去って

まったく別のかたちになっていくだろう

だから「世界」は

(先刻の「世界」を実態と見たがるならば)つねに「ない」

先刻までの「世界」をもし世界と見たいならば

そうした世界はつねに「欠如している」

人が「世界」と呼びたがるものの真相はこれであり

「世界」を先刻までのかたちで認識し固定化したがる自我を

おまえは絶えず捨て続けよ

おまえの中で絶えず固定化しようとする自我という地図を

おまえは絶えず捨て続けよ

おまえの中で絶えずポンコツになり続ける自我という「世界」観測機械を

おまえは絶えずバージョンアップし続けよ

 

ブッダの伝えたかったことが

こうであるならば

彼は生成そのものと変化そのものを見

経験したのであり

原子レベルの超速度の観察者や経験者であり続けようとしている

弟子たちにも

この過酷な観察者であれ

過酷な経験者であれ

と求め続けていることになる

 

アト秒だけ光を発する手法に今年ノーベル物理学賞が与えられたが

超短速度であるそうしたアト秒どころか

(ちなみに「アト」は漢字では「一刹那」である)

それよりさらに小さい時間単位の

ゼプト(zepto) (漢字では「一清浄」)

ヨクト(yocto)

ロント(ronto)

クエクト(quecto)

などまでの超短時間も認識できる

超高速の意識体となって

超超超超高速の生成や変化も把握する観察者や経験者であれ!

ブッダは鼓舞し続けている





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