むかしから
幸福とはなにか?
ということがたびたび問われ
これに答えるべく
さまざまな試みがなされた
どれもくだらない
幸福とはなにか?
という問いを立ててしまうところから
間違っているからだ
時間の流れのうちの
区切られたある部分の質について
おもに満足度の観点からどのように評価するか?
こうした視点からしか
幸福とはなにか?
という問いは出てこない
ある時間枠のなかでの存在のしかたに
どの程度満足がいったか?
質の高低はどのようだったか?
この問いには
評価者の側が持っている好き嫌いや
偏見からしか
解答しようはなく
物質の理と生体の理と精神作用の理とが重なった
この地上世界での存在のしかたに対して
好き嫌いを持ったり偏見を持ったりしていることへの
根源的な批判を除外したところにのみ
この問いは生じうる
どのような存在のしかたも
またそれによって満たされるどのような時間も
好き嫌いや偏見なしに
ただ全的に受容するほかない
という地上世界での条件を第一に受け入れれば
幸福とはなにか?
という問いが出てくる余地はない
かりにそう問うたとしても
出てくる答えは
あらゆる存在のしかたが幸福であり
あらゆる時間が幸福そのものである
といった答えになるだろう
存在のしかたと時間に対して
あらゆる評価行為を放棄するところにしか
「幸福とはなにか?」と問うてしまう過ちを超える道はなく
超えた後もなおも
「幸福」という語を使いたいのならば
存在のあらゆるありかたが「幸福」であり
時間のすべてが「幸福」であり
生死のあらゆる瞬間が「幸福」であると
言わざるを得なくなるだろう
たとえば
次のような瞬間においてさえも
https://www.youtube.com/watch?
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