2024年9月14日土曜日

透きとおるほどの発情をせよ

 

 

 

ぼくのように

アポリネール以来の自由詩形式を

勝手に乱暴に借りて

単語ならべというか文字並べというか

短い線からなる記号を羅列してみているだけの者には

どうでもいいような話

ながら

詩とか短歌を書くぞ

と意気込んで書いている人たちは

たいてい

決まったパターンに嵌まっていって

傍から見ていると

あわれ

に見えて

きてしまう

 

だいたいは

望まれてもいない

というのに

悲愴な

ものの見方に

墜ちていき

ほぼ必ず

悲嘆調を採用し

どんなに楽しいことを扱おうとも

結局は

むなしさに落ち着かせるとか

無常とか

空(くう)っぽいところに

結論を置いていこうと

してしまう

 

ああいうのはいやだなあ

さんざん見てきて

ゲーテの詩集などたまに開くと

あっけにとられるほど

どうでもいいことについて

短くかぁるく書いていたりして

こういうのが詩であるべきだろうなあ

などと

あらためて気づかされる

 

短歌などでも

近代短歌のど真ん中の斎藤茂吉など

ひどく食い意地が張っていたので有名だが

次のような歌を見直すと

青筋立てて世のむなしさを糾弾せんと

余裕なくキイキイ言っているような現代短歌のたぐいは

ほんとうに大事な歌の種を

やっぱり

忘れ去ってきてしまっている

と感じる

 

 

ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはりけり

 

冬の鯉の内臓も皆わが胃にてこなされにけりありがたや

 

はやくより雨戸をしめしこのゆふべひでし黄菊を食へば楽しも

 

この鮎はわれに食はれぬ小国川の蒼ぎる水に大きくなりて

 

簡易なる食店に入りなめこ汁と飯とを食ひていでて来りぬ

 

あさなゆふな食ひつつ心楽しかり信濃のわらびみちのくの蕨

 

はしきやし今日の筍手に持ちてその香さへよしわれ一人居り

 

額よりまだたらたらと汗たるを拭きながらあつき飯(いひ)を楽しむ

 

納豆もちひわれは食ひつつ熊本の干納豆をおもひいでつも

 

味噌汁を朝なゆふなにわが飲めば若布を入れていくたびか煮る

 

人ひとり横谷をさして行かむとす日暮に著きて蕎麦食ふために

 

うるはしきをみなに似ざるさ蕨をわれは愛でつつ朝々に食ふ

 

 

茂吉は会わなかったけれども

その尊師にあたる正岡子規なども

食い意地においては

もちろん

負けてはいない

 

 

柿の実のあまきもありぬ柿の実のしぶきもありぬしぶきぞうまき

 

白妙のもちひを包むかしは葉の香をなつかしみくへど飽かぬかも

 

つくづくし摘みて帰りぬ煮てや食はんひしほと酢とにひでてや食は

 

つくづくし長き短きそれもかも老いし老いざる何もかもうまき

 

 

野球狂だった正岡子規に至っては

幼名の升(のぼる)を「のぼーる」と伸ばし

「の(野)ぼーる(球)」として

「野球」という漢字をあてて雅号にし

そこから日本における「野球」という語を創出したほどで

(上野の野球場は「正岡子規記念球場」であるし

野球の訳語をいろいろ作って

文学者ではただひとり

野球殿堂入している)

野球短歌も作ってしまっている

 

 

久方のアメリカ(びと)のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも

 

今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうちさわぐかな

 

若人のすなる遊びはさはにあれど ベースボールに如く者はあらじ

 

 

じぶんがその時おもしろがっていることを

おもしろがって歌ってみなよ

というのが短歌の本質であって

周囲のひと目を気にしながら善人ぶった歌を歌おうとしたり

世の情勢に合いそうな歌に仕立てようとしたりするのは

平安あたりの古典和歌の場合ならともかく

(中世和歌はすでに違っている)

個人がだれとも分かちあえないじぶんだけの孤絶の楽しみを

楽しいだけ楽しんでこっくりさっぱり歌い上げる近代短歌にあって

はっきりと捨て去られた

そこに近代短歌ならではのくっきりした発展があった

 

 

ひさしぶりに

性愛短歌に賭けていた頃のぼく自身の短歌を

ここに並べ直しておこう

世を憂う善人ぶりばかりしたがる歌人たちに辟易して

初期のアルベール・カミュの夏や存在の謳歌のような手ざわりを

ぼくは希求し続けていた

これらの短歌を作ったことで

若かったぼくは短歌のひとつの頂点を極めたと思うし

これらの短歌は昭和の短歌史上のひとつの事件であった

その後もたくさんの他人の短歌を読んできたぼくは

いまにしてこのことを傲岸不遜に断言できる

 

 

《森とみずうみのからだ》

 

きみのにおいからだのにおい立ち起こるラクロの集をひらく間もな

 

触れんとし触れずに見つめいる時のもっとも熱ききみのからだは

 

ひとことも愛とはいわず中指に髪まきつけることより始む

 

まだ口にふくまぬ髪の数本を求めてすべるくちびる濡れて

 

夏芙蓉ひくく流れる香のなかに玉の熱持つきみのひとみは

 

耳をわが歯のすべるときなないろの海すべる風にきみはふるえて

 

そっと耳噛む時あかきあさやけのしずけさのなか愛の密約

 

耳を噛む喉うなじ肩すべて噛むおろそかにすまじ愛の儀式は

 

くちびるの奥にあふれるさらさらと軽き味持つ水ふくませよ

 

指の記憶いずみの水のつめたさに咲くくまぐまのきみのからだは

 

やわらかきものへとかくもやわらかに接しゆくこの潮のたかまり

 

きみの腰のあのかがやきを知っていてなお輝かしきを求むわが目は

 

そのたびにあたらしき肌この胸のかがやきもいま生まれたばかり

 

たわわなるこの胸のおもさいつまでもわが胸()れず熱持ちていよ

 

時代より永遠へ逸れよたわわなる乳房受くべしわが両の手は

 

背も胸も精妙な楽器目つぶりて弾く時われは夜明けの喩え

 

森が呼ぶきみがわれ呼ぶ呼ぶ声に純な応えとしてあれ、からだ

 

指と指の数ミリの動き正確にからだの波へ波をつたえて

 

吸えば清く汗さえ清くふたりいることで目覚めるからだの清さ

 

ざわめきのやまぬ過敏な森を持つからだの汗の芳醇の香よ

 

水は混ぜてともに飲むべし飲みくだすとき香りたつ野葡萄の口

 

背の香り乳房の香りわずかなる異なりを知るわが鼻も咬め

 

ぬくもりも甘きことばも求めずに透きとおるほどの発情をせよ

 

情欲のつねなる清さわれらみな水より水へ流れゆく水

 

主張せぬ思索さえせぬ細胞のあつまりとなる浄欲となる

 

底知れぬからだの底にただ向かうわれは滝すでにおとこではなく

 

汗ひかるわきばらの塩の味つよく海近しいつも愛するときは

 

アメジスト秘めているような胎あつくその紫の熱を吸うべく

 

精神にいかにかかわるしなやかにわかきおまえの泉のほとり

 

くるしみに似た表情をつつむ闇その闇がいま発火せむとす

 

この黒き肌のおとめを地軸とし聖季節まわるまわるまわる

 

いのちへともっとも近き暗がりを見る視力得んとして目をつむる

 

極みへとむかう流れに入らんとす寄せてはかえす無限旋律

 

指先の芯までの痺れかなかなの啼く頃の血の清き瀬音よ

 

あかり消さぬふたりとなりてあきらかに見えるからだの見えない奥

 

胸も腰もともに隠さぬきみといてまだ深くふかく泉は逃げる

 

つくづくと女はマリア海やまのすべておさめる薄闇のなか

 

背のくぼみその濃き陰に憩いたるわれを信じよそのわれのみを

 

うすあかり油のごとく背を腰を流れておれば指はとまどう

 

われらふたりからだに遠く超えられて意識は森の夜明けのようで

 

からだ脱ぐことを覚えし昼過ぎを菜の花はかくもあかるく燃える

 

手も口ももどかしなおも尽くしえぬからだは深き藍のうずじお

 

まだすべて終ってはおらぬ眠らずに迎える朝の青の永遠

 

みずうみは今朝もしずかに愛慾のかたちのままにさざなみの青

 

まじわりは海の味してようやくにわれらの潮の高鳴り止みぬ

 

神経のつぼみの開ききりしのち高貴なる石のごとし疲れは

 

きみの髪くろ髪ほそき戦乱のあとの小川の水草の茎

 

樹のみどり草のみどりにかわりゆく湯浴びればかくもあかるき蜜毛

 

蛍ぶくろこの朝の愛のおこないを喩えるによし摘みに()に出

 

胸に顔うずめればすでに爽涼の秋の冷たき(はだえ)なりけり

 

クラップフェンの森でいつかのように会う 純愛のようにいつかのように

 

 

 

 


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