2017年1月7日土曜日

さようなら 朔太郎


さびしさについて
だらだら
ぐずぐず
長ったらしく書いている詩がSNSでまわって来て
ちょっと読んだら
くっだらない
どうしようもないもので
詩なんて
とてもじゃないけれど呼べない代物で*
こんなのを
詩でございます
なんて出している人が
やっぱり
いるんだなァと
読むのをやめたら
おしまいのほうに作者名があって

萩原朔太郎

だとさ

まいったねぇ
と思ったけれど
朔太郎時代もわが内的美学においては
きっぱりと去っていたのね
と悟って
ちょっと清々しくなった
もう全集は売り払っちゃおう
もういいや

とはいうものの
もっと短い
軽みのあるものには
いいものが
いっぱいある
朔太郎
それらまでは
忘れないよ
でも
全集はもういいや

高校時代
いちばん好きな詩人で
いつも朔太郎集を持って歩いていたのに

別れは来るもの
なのね

さようなら
朔太郎
また
新たな読者たちに
出会っておいき




*詩とは、言語表現において至上の含蓄を持つと目されたものへの尊称で、読者側の主観内で使用される用語。書き手側が自身の作物を呼ぶ時にこの用語を用いたり、仲間内の褒め合い構造が支配する気持ちの悪いグループ内で互いの作物に向けて用いられたりする場合は、一般的な良識に鑑みて、尊大であるとか、自己陶酔に陥っているとか、常軌を逸しているとか、馬鹿か、こいつらは…などと見なされる。猶、歴史上の一時期において、形式上、分かち書きの韻文に対して使用されることが多かったが、19世紀のロマン派の諸々の実験から20世紀のシュールレアリズム、モダニズムの多様な実験を経た現在では、散文形式も含め、形態も長短も問われない。




0 件のコメント: