2022年8月11日木曜日

国が長期にわたって定常的であるなら

 

 

 

この国小国にて人の心ばせ愚かなるによりて…

             鴨長明 『無名抄』

 

 

 


 

日本でなにが起きたか

なにが起き続けているか

 

アダム・スミスの18世紀後半の考察を参考にしてみる

 

かつて繁栄し

成長を完全に止めてしまった国

中国

をモデルに

18世紀のスミスは

『国富論』で考察している

 

 

たとえ国富が莫大であっても、国が長期にわたって定常的であるなら、高い労働賃金は望めない。人口の大きな割合を占める労働貧民が、最も幸せで快適な暮らしができるように思われるのは、社会が最大限の富を獲得したときではなく、さらなる獲得を目指して前進を続ける、進歩的な状態にあるときだ。社会が定常状態にあるときの労働者は苦しく、衰退状態では惨めである。社会が進歩的状態にあるときは、どの階級も晴れやかで元気だ。 定常状態では生気がなく、衰退状態では憂鬱である。

 

 

また金持ちや大資本の所有者が、大きな安全を手に入れているのに、貧乏人や小資本の所有者は、安全をほとんど確保できないばかりか、下級官僚によって正義の名のもとにいつ略奪され、強奪されるかわからないような国では、国内のどの業種に投じられる資本も、その業種の性質と規模から見て最大限の量になることはけっしてない。どんな業種でも、貧乏人が抑圧されれば、必然的に金持ちが富を独占し、あらゆる事業をほしいままにして、莫大な利益をあげることができる。

 

 

日本だけではない

豊かになった国は必然的に「定常状態」に陥るから

「労働貧民」は搾取され

つねに不安で

苦しむ

富を独占する「金持ち」の側に一個人として付けばよい

という

アベ取り巻き連中的解決法は

あらゆる文化や地域や言語を自由に往還できる華僑的能力を備えなければ

長期的には無効である

ある一個人は波乗りしおおせても

その子の代には環境が崩れるだろう

孫の代には汚名が残るばかりだろう

 

(むろん

(平成・令和にニッポンジンを広く汚染し

(とりわけ安倍時代には猖獗を極めた人生訓

(  今だけ金だけ自分だけ

(という主義を信奉しきるならば

(なるほど

(すべて

(事は解決

(では

(ある

 

「労働貧民」は「金持ち」にとって

重要な「金」製造の素材であり工場なので

これが「生気」を失い

「憂鬱」になれば

生産は先細りになっていく

 

もちろん

文化や地域や言語を自由にまたいで移動し続けられる「金持ち」は

「労働貧民」が枯れ滅びた地域を捨てて

その地には

さらに焼き畑処置を(火器や核や化学物質…で)行なって

しばらく放置してから

べつの産業を興すこともできる

 

停滞の原因が

欠陥のある法と制度(官僚主義を含む)にある

と考えたスミスは

処方箋として

官僚主義の低減化

縁故資本主義の低減化

自由貿易

中小事業への支援

などの処方箋を提示している

 

ここに

希望を見出そうとするならば

戦後のノーテンキな明るいニッポンジンのように

ふたたびなっていくだろうし

「人道的」

かつ

「未来を信じ」

「夢と希望」

をなにかと謳い上げたがる

大学の経済学のセンセ

なにか

のように「青い山脈」していくだろう

 

戦後77年のニッポン実験は

少なくとも

官僚主義の低減化

縁故資本主義の低減化

この国民にあっては不可能であることを

しっかりと証明したからである

 

官僚主義や

縁故資本主義を破壊しうるのは

じつは

独裁的な王政しかない

王政

という物騒な名を使わなくてもよいが

官僚と縁故の徹底排除には

論理的に

他の方法はあり得ない

ただ

これを可能とする王は

数年程度しか

続くことはないだろう

10年は絶対に持たないだろう

これは

ナポレオン独裁によって証明されている

ヒトラー独裁も

一応

加えといてみる?

ん?

 

スミスの考察には

もうひとつ

大きな欠陥がある

「労働貧民」も

「金持ち」も

一地域に定住し国境から出ない

という前提で

考えていることだ

 

この点については

現代にあって

乗り越え得た者たちがいる

DSこと

国際的多国籍権力連合であり

超国家的金融力・権力を備えた人類の1%未満の者たちだ

彼らは

一国家の官僚主義など

すでに

軽々と超えた

 

しかし

縁故資本主義は超えただろうか?

 

 

グループ化したり

契約したりする時点で

縁故の魔は

彼らの活動や富や安定にさえ

必ず侵入してくる

 

完全能力主義で

グループを結べば避けられる?

 

 

完全能力主義という規則自体が

縁故を形成する

なにが「主義」を支えるのか?

なにが「ポリシー」を支えるのか?

あらゆる規則・形式・枠組・やり方・しきたり・「文化」は

縁故の負の面をかならず引き摺ってくる

 

そもそも能力は多面的であり

重層的であり

相反的であって

能力評価においては

能力評価する者は

永遠に

異質の能力域の者から能力評価され続けもする

ある能力を持つ者は

異質の能力者から見ればゴミでしかない

 

(ここは

(詳細な考察の場ではなく

(自由詩形式を簒奪したクーデターの現場なので

(発想へのアクセスボタンとしての自由詩形式性の発揮だけをして

(メモしておくが

 

端的に言って

みずから

次の国際的多国籍権力連合を成そうとするか

超国家的金融力・権力を備えた人類の1未満の者たちとなろうとするか

他のかたちでの超克の可能性はない

 

ただし

少し前までの勝者が想像もできないような

まったく違うかたちで行なうことに

唯一の

勝機はある

 

これは人類の最先端であり

最先端において

は存在しない

 

そうして

少し前までの勝者は

全員

滅亡させなければならない

あるいは

全く違った姿に変えて

下人とする

 

彼らの歴史を残さず

残させない

 

ニッポンジンなら

『古事記』や『日本書紀』の成立に

学び直しておく

という

学習機会もある

 

ね?

天武天皇?

 

ね?

持統天皇?

 

 




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