ふらんすに行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
萩原朔太郎『旅上』
萩原朔太郎の詩集を携えて
高校生の夏
ヨーロッパ歴訪の旅に
出たことがある
すでにフランス語を学んで
ジイドを読んだりしていた友は
パリに着くや
娼婦を三人も呼び出して
リムジンに乗って
どこかへ去って行った
きみも来るかい?
と聞かれたが
ぼくは純情だったので
いっしょには行かなかった
走り出していく車の
窓から
金髪の美人娼婦のひとりが
手をひらひらさせて
ぼくに
さよならしてくれた
日本語の自由詩を完成した
と言われたりする
朔太郎だが
晩年は定型詩に戻ってしまう
定型詩で語ろうとすると
どうしたって
内容は定型の嘆き節ばかりになるので
晩年の朔太郎は定型嘆き節詩人となったが
そういう内容や歌いっぷりが
かえって世情には受けたりするものだから
ニッポンの詩というのは
グン
ググン
と停滞しちゃうわけである
高校の頃は
朔太郎や
中也や
ボードレールや
ランボーばかりを好み
なんだか
われながら偏ってきちゃったなァ
と思って
一気にバルザック全集に飛び込んだら
だんぜん
そっちのほうが面白かったので
バルザック研究に入り込んでしまった
パリで
娼婦を三人も買った友は
しかし
そんなにジイドを読めてはいなかったはずだ
フランス語を学んだ人はわかるだろうが
ジイドのフランス語は楽ではない
いろいろなフランス語に読み慣れた上で
接続法の嵐だの
条件法過去第二形だのも
適切に理解していかないといけない
執筆中に辞書をさんざん引いて
古い言葉を探して
文章中に入れていったジイドは
アテネ・フランセに通って二年ぐらいの高校生に
すらすら読める相手ではない
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