2022年8月30日火曜日

現状は歴史の水準以下


 

物質的な力を転覆するには、物質的な力が必要である。

しかし理論であっても、それが大衆を捉えるならば、物質的な力となる。

カール・マルクス『ヘーゲル法哲学批判』*

 

 

 


 

宗教と政治の問題らしきもの

その絡み合いの未解決ぶり

ひさしぶりにそれが

列島民のアタマにふつふつとしてきている

それを見物していると

やはり

思い出してしまう

マルクス

 

ドイツにとっては、宗教の批判は本質的に終わっている。宗教の批判は、あらゆる批判の前提なのである。

宗教の天国的な祭壇やかまどのための祈りというものが誤謬であることが明らかにされたので、そうした祈りの誤謬は現世的にも存続できなくなったのである。人間は天国が存在するという幻想のもとで、天国のうちに人間を超えた存在を探し求めていたが、そこには自分自身の似姿しかみいだすことがなかった。そこで自分の真の現実性をみつけようとする場合に、そしてみつけなければならない場合に、もはや自分自身の仮象だけを、人間を超えた存在だけをみいだして、満足することはできなくなったのである。*

彼の時代のドイツは

なんと明晰な認識に達していたことか

などと

一瞬羨ましく思ってしまうが

もちろん

マルクスの意識がそこに達していただけのことで

民衆がこぞってその明晰さに到っていたわけではない

 

ともかくも

せっかく宗教と政治の問題“らしき”ものの膿が

どろどろ

ぐちゃぐちゃ

出てきているというのに

時事ネタゆえ

準備がまるで調わない

というのは致し方ないとしても

誰ひとりマルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』あたりから

おもむろに論じはじめることをしないことに

呆れてしまう

宗教についての

みごと過ぎるまとめが

この序説には書かれていて

この簡潔さを超える宗教理解と要約は

これまで人類の脳から出てきたことはない

宗教を考える上でのベースは

やはりマルクスのこのまとめにしかない

 

 

この序論には

「宗教は民衆の阿片なのだ」という有名な発言が出て来るが

どうしてそういうことになるかというと

 

►宗教が人間を作るのではなく、人間が宗教を作る

 

この場合、「人間」とは

まだ自らを自己のものとして獲得していない者や

ひとたびはそれを獲得したもののそれを失ってしまった者

であって

そういう者が

自らについて抱く意識や感情が

「宗教」である

 

     さらに

この「人間」とは

世界の外にうずくまっている抽象的な存在ではなく
人間の世界のことであり

国家のこと

社会的なありかたのことである

 

国家

社会的なありかたが転倒してしまっているため

顚倒した世界意識である「宗教」を生みだす


      ↓

►宗教

=この世界の一般理論

=この世界についての百科事典的な概要
=その通俗的な論理学

=その霊的な要点

=その熱狂

=その道徳的な是認

=その厳かな補完物

=世界の慰めと正当化のための一般的な根拠

 

     ↓

 

►さらにいえば

宗教

=人間存在が真の現実性をそなえていないため

人間存在が空想のうちで現実化されたもの

 

     ↓

 

►この空想性のゆえに

あらゆる宗教はひたすら悲惨なもの

 

     ↓

 

►宗教というこの悲惨は

現実の悲惨を表現するものであると同時に

現実の悲惨に抗議するものでもある

 

     ↓

 

►宗教は圧迫された生き物の溜め息であり

無情な世界における心情であり

精神なき状態の精神

 

     ↓

 

►宗教は民衆の阿片だ

 

 

この簡便な宗教分析で

マルクスはすでに

宗教という現象(あるいは症状)の二重性を指摘している

宗教という悲惨が

   現実の悲惨を表現するもの

   現実の悲惨に抗議するもの

であるとし

この宗教そのものがすでに現実の悲惨に対する抗議だと見ているわけで

マルロー的な言い方をすれば

「人間の条件」に対する人間側からの抗議だということになる

マルクスはいつも

同一物に意味や機能の二重性を読み取るのが好きだ

これはヘーゲル由来とも思えるが

ヘーゲルの場合の概念の意味性の多重化のしかたと

マルクスの場合のそれとは異なるので

それらについては

研究者たちの詳しい論文をどうぞ

 

 

 

さて

 

 

宗教が民衆にとって

ただの阿片に過ぎないというのなら

もちろん

心身の健康のために

それを廃棄すべきだが

ことは

そう簡単ではない

 

民衆に幻想のうちだけの幸福感を与える宗教を廃棄するということは、民衆に現実の幸福を与えることを要求するということである。民衆に、みずからの現実の状態についての幻想を放棄すべきであることを要求するということは、幻想を必要とする状況を廃棄することを要求することである。だから宗教批判とは、 嘆きの谷への批判の萌芽である。嘆きの谷に聖なるものという仮象[光輪」を与えるものこそ、宗教だからである。*

幻想の幸福

幸福の幻影

それを発生させる宗教という装置を捨てさせるなら

現実の幸福を与えうる別の装置を

民衆に準備してやらないといけないだろう

幻影装置としての宗教がないとやっていけないような状況を

停止し破壊しないといけないだろう

というわけである

だから

宗教を捨てよと説く批判は

苦悩と悲惨を生み続ける状況(=嘆きの谷)への批判となる

 

(マルクスが批判し

(超克したと思い込むヘーゲルならば

(苦悩と悲惨を生み続ける状況(=嘆きの谷)は

(しかし

(ある程度は集団ごとに同一の傾向や色あいを帯びるものの

(個人個人においては異なっており

(廃棄し変革すべき対象として単一化はできない

(とおそらく考えるだろう

 

 

 

マルクスのこのあたりの主張を見ながら

ジミントー=トーイツキョーカイ

コーメートー=ソーカガッカイで

その他の政党もほぼトーイツキョーカイであった事実をふり返ると

この列島のどの戦後政党も

現実の幸福を与えうる別の装置を

民衆に準備してやる自信も意志もなかったのがわかる

幻影装置としての宗教がないとやっていけないような状況を

停止も破壊もすることができず

セイフティーネットとして

背後にいつも宗教という装置を設置しておき

幻想の幸福

幸福の幻影

それを発生させ続けていたと言える

 

 

 

マルクスは

当時のドイツの現状について

こうも言う

 

わたしが一八四三年のドイツの現状を否定したところで、フランスの暦で言えば、[フランス革命の]一七八九年にすら到達しないだろうし、現代の焦眉の問題に触れることもできないだろう。
 ドイツの歴史とは独特なものであり、これまでいかなる国民も歴史という天空においてこのような動きを経験したことはなかったし、今後も経験することはないだろう。というのも、ドイツでは近代の国民が行った革命をまったく経験せずに、ただ革命からの復古体制だけを[近代の国民と]共にしたのである。ドイツが旧体制に復古したのは、第一に他の国民が革命を敢行したからであり、第二にこれらの国民[の革命]にたいする反革命が成功したからである。*

 

まるで

近代(…いや、「なんちゃって近代」)ニッポンのことを言っているのではないか

と思わせられる

ニッポンも[フランス革命の]一七八九年にすらいまだに到達していないし

近代の国民が行った革命をまったく経験せずに

ただ革命からの復古体制(=天皇制明治体制)だけを

[近代の国民と]共にし

旧体制(=天皇制)に復古したのは

第一に他の国民が革命を敢行したからであり

第二にこれらの国民[の革命]にたいする反革命が成功したからだ

 

 

 

さらにマルクスは

 

ドイツの現状は、歴史の水準以下であり、

いかなる批判にも値しない*

 

これまた

現代のニッポンにそのままふさわしい憤慨を洩らしつつも

 

  ドイツの現状に戦争をしかけようではないか。何があってもである。*

 

と鼓舞するところが

なるほど

マルクスなのであるが

ニッポンでは

これ

ないだろうなァ

 

今回も絶対

エジャナイカ エジャナイカ エジャナイカ…

に流れる

思うね

 

それさえも踊らずに

インパール作戦

じゃないか

 

 

 

*マルクス『ヘーゲル法哲学批判』の訳は、『ユダヤ人問題に寄せて/ヘーゲル法哲学批判』(中山元訳、光文社古典新訳文庫、2014)所収の中山元訳によった。







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