Mais le maître est toujours là.
Robert Pinget L’ENNEMI 1987
文章とちがう
自由詩形式をなぜか
使うこと
すでに長きに亘っている我なれど
はじめから
詩というものには興味がなくて
定型詩ならともかく
定型にも文章の闊達さにもどっちつかずの
この自由詩形式というやつ
使ってみつつも
使い勝手は悪いままで
こうして
書いていても
なんだかなァ…
と本人が思っている
ただ
長いこと使ってみていると
自由詩形式のよさ
というのもわかってくるもので
なんといっても
じつは
定型詩とも文章ともつかぬ
どっちつかずのところに
至上の価値がある
というのがわかった
ひとというのは弱いもので
亡霊がすぐにかたちを求めて
人形なんぞに取り憑きたがるように
なんであれ形式のあるものに
人心は取り憑きたくなる
ひとの世では
やたらと形や型や形式などが尊ばれるが
ようするに
憑依対象として便利だからにすぎない
そんなことが
短歌や俳句や定型詩や自由詩や文章などといった
言葉による形式のあいだを逍遙してみるうち
実感としてよくわかった
わかったとなれば
後はそこから解脱していくまでだが
そこは
憂き世のしがらみというか
なれあいというか
まだダラダラと
つき合っていく感じもある
もともと
自由詩形式を使い出したのは
好きだったザ・ビートルズの
「アビー・ロード」や
「ホワイト・アルバム」や
「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」
詞に近いものを書きたかったからで
ようするに
マザーグースをベースとした
ナンセンスと
冗談と
ユーモアと
シュールっぽさをまぜこぜにした文句を
えんえんと書いていたい
というところから
来ていた
ちゃんとした「詩」は
後鳥羽院や定家や藤原義経のように
短歌でこそ描けるものだし
短歌でこそ描くべきものだし
ちゃんとした思考は
もちろん文章で展開すべきもので
現に
マザーグースをベースとしない
ナンセンスと
冗談と
ユーモアと
シュールっぽさをまぜこぜにしない思考を
文章で書いているし
いくらでも書ける
そういう
いつでも切り離し可能な扱い方で
ぼくは自由詩形式と
ずっと
つき合ってきている
そういえば
自由詩形式の利点で
長くつきあってみてわかってきたことが
もうひとつある
ひとがあまり思いつかないような発想の種や
ちょっと面白い話の概要や
いろいろな文章に使えそうなイメージなど
自由詩形式で書いておくのは
これは
なかなか悪くない
こういったことを文章で書くと
すぐにひとに盗まれてしまう
アウトラインを盗んで
ちょちょっと人物名なんかを替えれば
いくらでもべつのお話だのができてしまう
それが自由詩形式で書いてあるとなると
詩形式というのに馴染みが薄くなったこの時代
見えない防壁が張り巡らされて
盗まれる心配が格段に減る
詩形式というだけで
現代の人間は読む気を失うので
自分が後でいくらでも使えるように
おおっぴらにブログに出してネットに載せておいても
ろくに読まれもしないし
うっかり開かれても読むのを忌避されたりし
発想盗難防止効果はおそろしく高い
ということで
自由詩形式にも
利点はあるよ
というお話でした
ちなみに
マザーグース系しか好まないぼくは
叙情詩が大っ嫌いで
あほか?
と思ってしまいます
ちなみにちなみに
ナンセンスと
冗談と
ユーモアと
シュールっぽさをまぜこぜにしたものしか
好まないぼくは
ニッポン語の現代詩とかいうのが
ほんと
大っ嫌いです
だいたい全部は読みましたけれどね
ほぼ全部に共通する
あのお新香臭さというか
ものの感じ方や見方のネガティヴさって
なんなんでしょう?
あれが
戦後ニッポンなんですか?
あれが
高度成長期ニッポン
なんですか?
ミシェル・ウェルベックが
ヌーヴォー・ロマン伝説に対して
とりわけ
ミニュイ社に拠った作家たちの空疎なフォリマリズムに対して
言い放った
言葉が
思い出されますね
テクニックをさんざん無駄遣いしたあげく
この貧弱な結果とは……
お気の毒で
胸が痛む
こう
引用しながらも
ぼく
個人的には
ヌーヴォー・ロマンの作家たちのほうが
やっぱり
面白いとは思っています
むずかしいところ
ですナ
でもねえ
読んで
やっぱり
それなりに
けっこう
面白いとこ
ありまっセ
となると
「この貧弱な結果とは……」とは
速断
できなかったりしますナ
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