いかなる前世の宿業にて、
かかる世に生を受けて、
憂きことのみ見聞くらん。
『平治物語』
大内裏と大宮大路での
悪源太義平と平重盛とのせめぎ合いでは
幾度となく
重盛の
鎧の色と馬の毛色が
義平によってくり返し叫ばれる
櫨(はじ)の匂ひの鎧着て
鴾毛(つきげ)なる馬に乗りたるは
平氏嫡々
今日の大将
左衛門佐
重盛ぞ
押し並べて組み取れ
討ち取れ者ども
と
武士たちに命じるのから始まって
十九歳の義平は
櫨(はじ)の匂ひの鎧に
鴾毛(つきげ)なる馬は重盛ぞ
押し並べて組み落せ
駆け並べて討ち取れ
者ども
櫨(はじ)の匂ひの鎧に組組め
鴾毛(つきげ)なる馬に押し並べよ
と
さらに二度も叫ぶ
地の文まであわせて
赤地の錦の直垂に
櫨(はじ)の匂ひの鎧に
蝶の裾金物をぞ打ちたりける
鴾毛(つきげ)なる馬のはなはだ逞しきが
八寸余りなるに
金覆輪の鞍置きてぞ
乗ったりける
と
重盛を描写し
さらに
年二十三
馬居
事柄
いくさのおきて
まことに平氏の正統
武勇の達者
あはれ
大将軍かなとぞ見えし
と
褒めそやす
古典の
遠い世の話の中でも
本を見返すたび
再会するのが
嬉しい人がいる
平重盛はそのひとりで
優れた武人でありながら
情に厚く穏やかで
人への気配りの行き届いていた
希有の人物だったらしく
慈円が『愚管抄』に
「いみじく心うるはしく」
と記したり
「武勇時輩にすぐると雖も心懆甚だ穏やかなり」
と吉田経房が『百錬抄』に記したり
「かくの如きの時必ず使を送られ殊に芳心を致されるなり」
と中山忠親が『山槐記』に記したりしている
平家の棟梁として
重責を担いながらも
重盛は後白河院のことで面倒が絶えず
息子たちの嫁の家で
かつ義兄でもあった藤原成親が
平氏打倒の陰謀に加担していた事件などから
政治的に不愉快な立場に追い込まれ
熊野詣での後には吐血して
四十二歳の若さで病没することになるが
平家にこの人あり
と敬愛される存在感は
後々まで
語り伝えられることになった
鎧の色は
札(さね)を綴じ合わせる組紐や
皮紐の色で決まる
「匂ひ」は
袖や草摺の端へと色が薄くなっていくことで
裾のほうが次第に濃くなっていくものは
「裾濃(すそご)」といった
重盛の鎧は匂ひ縅の鎧であった
さらに
櫨(はじ)とは
ハゼノキのことで
紅葉が美しい
この葉の汁で染めると
赤みのさした黄色に染まる
色といえば
鴾毛(つきげ)の馬も
なかなか
繊細な色合いを言語化している
「鴾」とは鳥のトキのことで
白いトキが飛んでいるのを下から見ると
翅の下にピンク色が見える
鴾毛(つきげ)の馬とは
このピンク色をした馬ということで
桃花馬ともいう
大宮大路から待賢門を入り
内裏の建礼門まで攻め込んだり
また待賢門まで戻ったり
という時の重盛の
櫨(はじ)の匂ひの鎧着て
鴾毛(つきげ)なる馬に乗りたるは
平氏嫡々
今日の大将
赤地の錦の直垂に
櫨(はじ)の匂ひの鎧に
蝶の裾金物をぞ打ちたりける
鴾毛(つきげ)なる馬のはなはだ逞しきが
八寸余りなるに
金覆輪の鞍置きてぞ
乗ったりける
という姿は
彼の人生の頂点の姿であったろう
平家の棟梁たるべく生まれ
鮮やかな鎧を着て
繊細な色の馬に乗り
その二十年後には
惜しまれつつ
急逝してしまった人
2021年12月
京都御所わきのブライトンホテルに招かれ
まだまだ紅葉の美しい御所内を
時間をたっぷりかけ
毎日のんびりと見歩いた
たびたび建礼門に戻り
梨木神社や廬山寺を見ては
清和院御門から入って
建礼門の前を通って蛤御門へ抜けたり
ホテルの人から勧められた
夜の左京区の「よこちょう」に飲みに行って
遅くなって雨の降り出した中
やはり清和院御門から入って
建礼門の前を通って蛤御門へ抜けたり
とくり返したのも
重盛のことを思えば
全くもって
無駄ではなかったのだ
悪源太義平の
櫨(はじ)の匂ひの鎧に
鴾毛(つきげ)なる馬は重盛ぞ
という叫びが響き
赤地の錦の直垂に
櫨(はじ)の匂ひの鎧に
蝶の裾金物をぞ打ちたりける
鴾毛(つきげ)なる馬のはなはだ逞しきが
八寸余りなるに
金覆輪の鞍置きてぞ
乗ったりける
という姿して
平重盛が
確かに存在した空間に
ほんの860数年違いで
わたくしも居た
幾度も幾度も
くり返し
その周辺を歩きまわりながら
わたくしも居た
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