太鼓の音に足のあわぬ者を咎めるな。
その人は別の太鼓の音に聞き入っているのかもしれない。
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 『森の生活』
こうやって言葉を並べてみていると
他人からはこちらもニンゲンに見えるにちがいないが
年々歳々日々刻々
いわゆるニンゲンなるものとは縁遠い身との自覚が深まっていく
もう死んでいるのかもしれないとはよく思うし
そもそも生まれてなどいなかったのかもしれないとも思うし
なにかの間違いで人体という玩具を手に入れてしまった行きがかり
しばらくニンゲンのふりをするゲームの流れに入ってしまったのだ
とりあえずは思ってみたりしている
めったにぐっすり眠ったりはしないしそんな時間もないのだが
それでも人事不省に寝入ってから目覚めたりすると
冗談でなしに自分が誰でいつどこにいることになっているのか
さっぱりわからなくなっていることがあって困ったりする
ああそういえばニンゲンをやっていたんじゃなかったか?
すこしずつ21世紀のニホンのニホンゴ環境の設定のなかに戻って
そんな時にニンゲンというのはどんなものだったかとよく振り返る
今朝方はそうだニンゲンというのは食べるのが好きだったり
温泉や海に入るのが好きだったりマッサージされるのが好きだった
セックスが好きだったりするドウブツだったなとまとめて思ってみ
これらにはあきらかな共通点があって
どの行為も肌接触や粘膜接触を至上価値としている
ニンゲンというのは自分にとっての異物と肌で接触したり
粘膜で接触したりすることに至上の価値を見出しているドウブツな
食慾と性欲が重要な欲望だとはよくいわれることだが
とりわけこのふたつは異物との粘膜接触をこそ特徴とする同質行為
眠りからしだいに物質界への覚醒状態へと入っていくというのは
こうした粘膜接触や肌接触に固執するゾンビどもの世界に入ってい
真面目に考えればうんざりさせられる不愉快な義務でしかない
しかしながらこれはこういうゲームなのでしかたがないとあきらめ
一から十までまったく首肯することのできない世界構造のなかへ
今日も明日も日々時間決めで墜ちていくわけだが
これを「生活」だとか「生きること」
いつまで経ってもわさわさと湧いて出てくるのがこれまた絶望的で
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