ガンで悪液質になってきている
という
坂本龍一が
高橋幸宏の死を
悲しんでいる
という
ちょっと遠まわりなニュースを
スマホのスマートニュースで見かけた
ほう…
このニュースのリアリティーが成立するためには
高橋幸宏が死んでいることにならなければならないが
そんなニュースは
まだ
目にしていない…
そう思って
「高橋幸宏」をググったら
(Google検索が
DSに有利な世論形成のための検閲や誘導のメッカであることは
もう何年も前から常識で
Google検索は使うな!
というのはネット使用者の常識ながら
「高橋幸宏」検索の場合は不利益は少ない)
どうやら死んだらしい
とわかる記事が
ちらほら出ていた
あの頃…
YMO現象の真っ盛りだった
あの頃…
街を歩けば
喫茶店に入れば
テレビをつければ
ラジオをつければ
嫌でも
多少はポップスが耳に入ってくる時代に
YMOという
インベーダーゲームの効果音を楽曲化したようなものばかり
演奏する三人組が出てきて
イヤだな…
という印象を持っていた
1978年のアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」
1979年のアルバム「ソリッド・ステート・サヴァイヴァー」
1980年のアルバム「増殖」
この三枚のアルバムの圧倒的な人気で
一気に
巷にYMOばかりが流れ続ける時代になった
イヤだな…
と
ひしひし
感じていた
その頃
ぼくは小林秀雄全集をほぼ読み終えて
なにを見るにも判断するにも評価するにも
小林秀雄のメガネを通していた
ランボーの文体にもかぶれ切っていたが
ランボーは小林秀雄の文体に包含されてしまうし
人生の中心に据えていたバルザックの文体は
あらゆるものを許容し飲み込む大海のごとき文体なので
ぼくの個人的な発語は
かえって影響されないでいた
そうするうち
ドゥルーズの文体と
ル・クレジオの文体
あわせて
石川淳の嵐が襲いかかってきて
1979年―1980年の『石川淳選集』全17巻(岩波書店)
毎月毎月飲み込まれるようになる
1980年に『狂風記』上下が出版された頃には
ぼくの文体も趣味も石川淳化され切って
永井荷風ふうではなく
石川淳ふうの江戸趣味まで発症するに至ったが
この頃は
ドゥルーズ+ル・クレジオ+石川淳のアマルガム文体で
あらゆるものを
ぼくは考え語り書き社会批評をしていた
石川淳の文体から抜け出るのには約20年かかり
この石川淳病を治療するために
柄谷行人の文体と
『墓のかなたからの回想』のシャトーブリアンの文体を
ぼくは長々と必要とした
シャトーブリアン文体は
治療薬として
ぼくの言語野に侵入してきたのだった
ぼくのあらゆる判断力のベースを成した
小林秀雄は
1983年3月1日に80歳で死ぬ
小林秀雄に評価してもらえるようなものだけを書きたい
と思っていた
ぼくのファンタスムの時代の
終わり
1983年4月
眠りから覚める時にぼくは
はっきりした男性の声で
「すぐにエレーヌさんに電話しろ!」と告げられる
そうしてその日
一度だけ学生の集まりの中で出会って
電話番号を控えていたエレーヌ・グルナックに
自分でも意味のわからない
必要もない
しかし「声」に命じられた奇妙な電話をかけ
ここから
30年にわたるエレーヌとの関わりが始まる
ぼくの人生が
すべて超常現象のみを基盤として動いているというのは
こうした出来事で
人生の各所で
ふいの方向転換をさせられてきたためだ
1983年12月22日
YMOは日本武道館でチャリティー・コンサートを行ない
YMOとしての活動を停止する
最初から
最後まで
ぼくにとっては
ほう…
というだけの存在が
YMOだった
ちなみに
新座の立教高校を卒業したぼくにとって
同高校を卒業した
高橋幸宏も
細野晴臣も
ついでに
佐野元春も
先輩にあたっている
イギリスの学校そのものを実現したかのような
薔薇と芝生とポプラ並木と
広大なキャンバスと
味のある校舎と礼拝堂と
日本屈指のパイプオルガンを備えた
自由奔放で
ユーモアとゆとりに富む
あの新座の立教高校の雰囲気の中で
高橋幸宏も
細野晴臣も
3年間を過ごしたのかと思うと
やはり
ほう…
と洩らしたくなるが
故郷を同じくする人どうしのように
わかる気がするところもある
バイロンのように
かつて自分がいた学校を
そろそろ
歌ってもいい頃かも
しれない
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