父方のおじいちゃんは
口が臭かった
煙草を吸う人特有の臭いだった
ヤニ臭い
というやつだった
横にいたりしても
それが臭ってくることはなかった
おじいちゃんの膝に座って
顔を近づけてみると臭ってくる
まだ二三歳のぼくは
おじいちゃんの家に行くと
よく
座っているおじいちゃんの膝に乗っかりにいって
顔をちかくに寄せて
おじいちゃん
口臭い
などと言っていた
思い出の中では
おじいちゃんは丸刈りで
いつもブスッとしている感じがあって
ユーモアのかけらもない人のような
そんな印象がある
しかし
間違っているのだ
この印象
おじいちゃんの口の
ヤニ臭さを
たびたびぼくが嗅いでいたということは
おじいちゃんがぼくを
たびたび膝に乗せてくれていたということで
そのたび
口を開けてしゃべったり
笑ったりしていたからこその
ヤニ臭さだったわけで
いつもブスッとしているとか
ユーモアのかけらもないとか
そういう印象は
どこかで
間違ってこしらえられて
おじいちゃんの記憶の簡易ラベルとして
ぼくのなかに定着してしまったもの
思い出というものは
ほんとうに
危ない
分離したり
重ねあわせたり
照らしあわせたりし直してみないと
いつまでも
大事なところを
誤解し続けたまま
記憶という
ごたごたした無限の映像や感覚の集積
うっかりすると
全体の印象の把握も
要所要所の意味あいも
いつまでも
誤解し続けたまま
じぶんの人生は
こんなだった
あんなだった
と
思い込んで
済ましていって
しまいそう
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