2020年6月1日月曜日

呵々



発想をつなぐのにも飛躍を随所に埋め込むこと
そうでなければならない
そして言説は全方向への瞬時の批評になっていなければならない
シェイクスピアだけが実現した理想の言説
ひと言を発する時に
それは権力奪取に邁進する全セクトを批判し
同時にある権力に寄って練られた愛国や人間愛の幻影を打ち砕く
こういう言説だけを口にしようとしたければ
表現はどうしてもナンセンスや奇矯さに行き着くほかない
あるいはあえてハイパーな感傷や童話じみた寓意に
ペローやグリムやアンデルセンのいかんともし難い優位
どうして現代小説はだめなのか?
宇治拾遺物語や今昔物語に平家物語以降が勝てないのはなぜか?
平和主義系言説の痩せ細り?
非暴力系言説はどうしてあれほど暴力的か?
アルトー…とつぶやいてしまうのは必然だとしても
つまらなかったアルトー
どこのホテルにもある聖書でこそやはり救われる物語性栄養不足
しかし驚いたことがあった
ろくな本を持たずにたどり着いた高級ホテルで
引出しから出した聖書は新約だけで
発想のカンフル剤の旧約聖書が付いていなかった
しかたなしにヘミングウェイを買う
それは偶然にもIslands in the StreamThe Garden of Eden
Across the River and into the Treesなのだが
これらこそ真に人生を変貌させる予期せぬ書物だった
それらを一緒に買ったのではない
おそらく20年ほど掛けて
あちこちの高級ホテルに投宿しながら
ひとつひとつ手に入れていった
何度もフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を
いろいろな言語の訳で買ってしまい
それはそれで読み直しのリゾート時間を演出しはしたものの
ヘミングウェイ晩年のエクリチュールを微妙に避け続ける習癖は
なかなか治せなかった
ゴダールでさえ老齢とともにヘミングウェイ化していないか、じつは?
数日前神保町のAV雑誌ビデオ店東西堂書店の外のワゴンで
昔世話になった松尾聡全釈『徒然草』を安値で買ったが
それは各章をぱらぱら見るうち
殊に「何事も、古き世のみぞ慕わしき。
今様はむげに賤しくこそなりゆくめれ」(第二十二段)や
「女の物いひかけたる返事、とりあへずよきほどにする男は、
ありがたきものぞとて、亀山院の御時、
しれたる女房ども、わかき男たちの参らるる毎に、
『郭公や聞き給へる』と問ひて試みられけるに、
なにがしの大納言とかやは、…」(第百七段)
などをひさしぶりに見直して
あの懐かしい森に囲まれた校舎での日々にすっかり包まれ直したからか
時間の喪失
というより溶解と変容の坩堝に瞬時に投じられたからだったが…
「寸陰惜しむ人なし。これよく知れるか、愚かなるか。
愚かにして怠る人のためにいわば…」(第百八段)
言え、兼好
わたしは少なくとも聴くべき相手を選ぶことはできる
絶対管理社会なにするものぞ
「妻といふものこそ、をのこの持つまじきものなれ。いつも独り住にてなど聞くこそ心にくけれ」(第百九十段)
社会という妻、「をのこの持つまじきものなれ」
呵々




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