死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ
死などなにほどのこともなし新秋の正装をして夕餐につく
春日井健
新種のウイルスなど何でもない
病も死もそもそも何でもないものだからであり
生死の別などどうでもよいのだから
新種のウイルスは自然のものでなく
あきらかに人間によって作られ撒かれたものだが
作って撒いた人間は非常かつ非情なまでの善意の人であった
雑音と虚飾を日常とするかに堕した人界を
一気に空へ
沈黙へと引き戻そうとする
全き霊性修行の路をつよく開こうとしたものだった
「真の導師は死のようだ」という
OSHOことラージニーシの言葉が思い出される
彼らが全人類に強いようとしたことの
なんと清く美しく霊性求道的であったことか
たとえばラ・グランド・シャルトルーズ修道院では
いまでも多くの修道士たちが
簡素な机と寝台と祈祷台の他にはなにもない個室で
一日のほとんどを祈りに捧げて暮らしている
彼らの所有物はたゞ、孤独、沈黙、清貧だけで
新種の密教的なウイルスは恵み深くもこの境遇を
あらゆる人間たちに与えてくれようとしたのであった
騒音や雑音や無益な喜怒哀楽に馴染みすぎた人間界を
ひといきに真性の霊的修行の場に変容させるには
舌を駆使し酷使しての姦しい活動を抑えさせる新種のウイルスは
なかなかにふさわしい合理的な手段であっただろう
沈黙、孤独、清貧をこそ当然の地上での生き方とされるまで
今後は恒久的にさまざまなウイルスが撒かれ続けるだろう
口の沈黙と心の沈黙と精神の沈黙が完遂されなければ
自然をつくり見えぬものをつくった神の言葉は聞き得ないからであ
パウロ6世曰く(1973年12月5日の一般謁見の言葉)
宗教上の課題においてなにかを摘みとるためには
私たちには沈黙が必要です
内的沈黙です
それには、おそらく外的沈黙もいくらか要求されるでしょう
私たちがものを聴くときに置かれる環境には
あらゆる音、感覚、声がありますが
これらは私たちを高慢にし
私たちの耳を聞こえなくし
望もうが望むまいが様々なイメージや刺激の反応で私たちをいっぱ
祈ったり考えたりする私たちの内的自由を麻痺させます
それらすべての音、感知するすべての感覚、すべての声の休止が
沈黙なのだといえるでしょう
ここでいう沈黙とは眠り(休息)という意味ではありません
私たちにとっての沈黙は
自分自身との対話
静かな熟考
良心の選択
個人的静寂のときであり
自分自身を回復させる試みのときなのです
傾聴の力を沈黙にゆだねましょう
そうして
なにについて
誰に対して耳を傾けるのでしょうか?
ことばで言うことはできませんが
もし神が私たちにその恵みをお与えになるなら
霊的傾聴によって神の御声を感知することができる
ということを私たちは知っています
神の御声は
その甘美さと力強さゆえに
そして神ご自身の御ことばであるゆえに
すぐに聞き分けることができます
聖グレゴリウス曰く(ヨブ書注解7,57-61)
私たちが話している多くの言葉は
実に余計で無駄なものである
私たちの霊魂は自分自身の様々な思いに影響され
その思いが平凡なものであれば
心は風に舞う葉っぱのようにひらひら飛びまわり
その思いが重苦しいものであれば
心は海中の石のように底に沈む
よくないおしゃべりをやめない人は全く道を外れている
人間の思考は水のようだ
この水は
もし容器に入っているなら
雨として降ったものは天に向かって吸い上げられようが
それをこぼすなら
下に向かって無駄に流れて無くなってしまう
沈黙への警戒心を壊すあらゆる無駄な言葉は
霊魂を自分の外に逃してしまう穴のようなもので
自分自身を認識することを妨げてしまう
たくさんしゃべることによって外面的なことに自己を奪われ
自分自身についてしっかり考える力が削がれてしまうのだ
周りに防御するものが何もなくなった瞬間から
敵の罠や打撃に丸ごと晒されることになる
この思考は敵の襲撃にさらされた町のようなもの
というのも沈黙という壁によって守られていないのだから
おしゃべりによって外に出てしまえば
防御壁なしに敵にさらされる
敵は楽々勝つことができる
この町自身が内部で争っているのだから
とはいえ
沈黙するのが話す場合においてのものだけで
思いにおいても沈黙がないならば
これも逆効果になってしまう
私たちの心は自分たちの過度の沈黙によって
様々な思いのひどいおしゃべりに苦しむことにもなる
これらの思いは
私たちのむちゃな沈黙によって窮屈になればなるほど
より激しく沸き立つ
しばしばこれらの思いは心のより多くの場所を占領することにもな
それらを外から叱責できる人が誰もいないのだから
こうして思考は
ときにはその沈黙において高慢にもなり
おしゃべりをする人たちのことを不完全なものとして見るようにも
身体の口を閉じていても
高慢によって悪習への扉を開いているということに気がつかない
舌にはブレーキをかけていても
思いに手綱をまかせていたりもする
怠慢にも自分自身については注意せず
それでいて好き勝手に他人を批難したりする
心の内に起こる多くのことが見えず隠されているため
このような好き勝手もできてしまうことになる
聖バジリオ曰く(「じぶん自身への注意」)
大きな落ち着きと静けさの中にあるなら
説教は安全な港に入るように聴衆たちの耳に入る
しかし激しい嵐のような聴衆たちのざわめきに遭うなら
それは空気中に散り難波する
だからこそ
沈黙を以て
説教の聞き届けられるための
静けさをつくり出せ
もちろん
仏教においても沈黙は勧められる
仏陀は言葉を三種類に分類し
第一は生活の上で話す必要がある言葉
第二は慈しみによる統制された情報交換のための言葉
第三は話してはいけない禁止すべき言葉
としていて
この第三の言葉に関して沈黙すべしとする
中部経典の五十八、abhayarājakumāra-
仏陀は自身の言葉の管理について述べているが
聞く相手に好まれるか否かに関わらず
相手の役に立つ事や真実のみであるならば
時と場を考慮して話すのがよいというもので
形だけのやみくもな沈黙ではなく
理性的判断に基づく分析の上に成り立つ無駄話の完全停止であり
仏陀の言い方では「聖なるariya沈黙行」となる
この沈黙行の実践は智慧の開発を導くものとされる
これを踏まえて現代の仏教者アルボムッレ・スマナサーラ曰く
人は楽しむ目的で話す
感情を引き起こす目的で話す(歌、文学など)
俗世間で
余った時間をこのような言葉を話すのに費やすことは避けられない
修行としてはこころが汚れるため
修行者にとっては禁止される
人は相手を騙して利益を得るためや
気に入らない人々を攻撃する手段として
また自分のエゴを強調するためにしゃべるものである
物事をよく理解できない無知な人々も
言葉の意味について何の躊躇もなくしゃべりまくる
これらの言葉は
修行をしない在家生活者たちにもたいへんな迷惑を及ぼし不幸をも
したがって悪業なのである
修行者だけではなく在家の人々も止めるべき言葉である
キリスト教と仏教の沈黙観に共通性があるのは
古代ユダヤ教の一派テラペウタイ派を中継ぎとして見れば
全く不思議ではない
天才的な脳科学者のジョン・カニンガム・リリーJohn Cunningham Lillyが
テラペウタイ派と仏教の共通点をまとめている
リリーはアイソレーション・タンク(感覚遮断タンク)を発明し
変性意識状態研究や人体と精神の隔離実験を行い
アメリカ政府への報告書として執筆された『バイオコンピュータと
人間が外部からの入力を完全に絶った場合に
精神の内面の世界が増幅され極彩色の色彩や前世体験をし
宇宙へ飛び出す体験をすると書いている
仏教や古代ユダヤ教における意識の扱いについても
もちろん射程に入れていたものだろう
アレクサンドリアのフィロンの記述に基づいて
リリーはテラペウタイ派と仏教の共通点をこう記している
(1)菜食主義の義務付け。財産共有。性的堕落の厳格な忌避。
(2)酒の使用の禁止。(飲酒だけでなく儀礼に用いるのも禁止)
(3)かつての祭司たちが好んだ血の儀礼の禁止。
(4)両者の僧侶とも、
(5)長期間の断食。
(6)特別な精神的修行としての沈黙(黙行)。
(7)テラペウタイ派の人々は、兄弟、子供、妻、
(8)仏教徒のようにテラペウタイ派にも尼僧がいて貞節を誓う。
(9)仏教独自の説教師と伝道師はテラペウタイ派にもみられる。
(10)その名が示す通り(
(11)テラペウタイ派は聖域において、
(12)テラペウタイ派の序列の最上位にくるのは長老。
近代で最も原初的な思考を行った宗教哲学者のひとり
ゼーレン・キルケゴールに言わせれば
沈黙とは神に服従しうるための第一条件のひとつである
人間が沈黙する時のみ神の声を聞くことができる
そして
「そういう時には汝は真にただ独りとなり
「あらゆる疑惑、異論、弁疏、遁辞、疑問……など
「ようするに汝の心の中にあるあらゆる声
「すなわち
「汝の周囲で
「汝の中で
「沈黙を通して汝に語りかける神の声以外のあらゆる他の声は
「沈黙せしめられる
「もしかかる沈黙が汝の周囲に
「また汝の中に
「いまだかつて存在しないなら
「汝は決して
「服従ということを
「今も昔も学んでいないのである
(『野の百合・空の鳥』2)
それでは
沈黙によって聞こえるもの
神の声とは
なにか
どのように
聞こえてくるのか
預言者エリヤが神の言葉を授かった時は
このようであった
「主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』
「見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。
「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。
「しかし、風の中に主はおられなかった。
「風の後に地震が起こった。
「しかし、地震の中にも主はおられなかった。
「地震の後に火が起こった。
「しかし、火の中にも主はおられなかった。
「火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
「それを聞くと、
「エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。
「そのとき、声はエリヤにこう告げた。
「『エリヤよ、ここで何をしているのか。』
(列王記上 19・11-13)
「静かにささやく声が聞こえた」
という箇所を
プロテスタントの旧約聖書学者・関根正雄は
「かすかな沈黙の声があった」
と訳している
これはさらには
「沈黙という声」や
「沈黙というかたちをとった声」と訳してもよかっただろう
翻訳の恐ろしさと光明とが此処にはある
神の声は「沈黙の声」としてしか顕われない
キリスト者のうち霊能を持たない多くの者はこの点について
神の不在といった表現や曲解に持って行くが
それは全くの誤りで
「沈黙の声」として顕われる神の声は
聞き手にはそのまま意味として無媒介に伝わるのである
肉体上の聴覚的な声のかたちをとる必要もなければ
内的心理的な聴覚的な声のかたちをとる必要もない
たいていの場合は
このように意味そのものとして出現する神の声は
それが聞かれた瞬間以降
聞き手の志向性として
意思として
行為として発現する
沈黙というものへの
こうした親和性はキリスト教やユダヤ教や
仏教だけに限られていない
東洋にもこれはあり
とりわけ日本にもあると
西田幾多郎ははっきりと認識していた
「幾千年来我等の祖先を育み来った東洋文化の根柢には、
「形なきものの形を見、
「聲なきものの聲を聞くと云った様なものが
「潜んで居るのではなかろうか。
「我々の心は此のごときものを求めて已まない
(『働くものから見るものへ』1927年 序文)