単純で澄んでいて若かった頃に
帰りたい
なんて
それほど思わない
いまもあまり変わらないから
複雑になったとか
汚濁の中でずいぶん濁ったとか汚れたとかスレたとか
思いたいかもしれない部分が心のダサイどこかにあるかもしれない
結局たいしたことない
クレジットカードも持たなかった頃や
革靴を買うならこういうのじゃなきゃみたいな蘊蓄を持たなかった
たしかに地球といっしょに太陽のまわりを何度も廻ってきたとはい
近くの公園のあそこにある木ほど老いてもいない
老子にはまだまだ遠いし
モアブの谷に葬られたモーゼほどではない
ノアが箱船を作ったのはたしか600歳だったようだし
寒山拾得なんかは幾つだったんだろう?
彼らほどの歳にも
いったのかどうかわからない
ようするに
単純で澄んでいて若かった頃に
まだいるということになるにちがいない
ノアの年齢ぐらいに達してから
まれに暇ができたりして
歳月の後ろをふり返ったりする頃から見れば
そう
その時には「過去」を保持できるのかもしれない
ボルヘスが言ったことを思い出せば
「過去とはおそらく人間が過去について考える瞬間にすぎない」
という
彼のあの言葉を
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